(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

医学を勉強するほど、人間理解力は低下する(3/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.7


◆ひとが最初から「理解できる」場合(例、PTSD

 あるひとがいて、そのひとのことがすぐに理解できたと今度は想像してみてくれますか。その場合、ほんとうは正常で、「理解可能」であるそのひとを不当にも異常で、「理解不可能」であるということにして差別するというのは、すぐに「理解可能できるそのひとのことをわざわざ理解不可能であることにするということですよね。つまり、いまもっている人間理解力を減らしてしまうということですね?


 そのわかりやすい例として、ひとをPTSD(外傷後ストレス障害)と診断する場合が挙げられるように思いますが、みなさんの意見はどうですか?


 誰だってよく知っているように、過去の体験を引きずって苦しむことがひとにはよくありますね。神経質な俺なんか、ひとと楽しく会話したあとですら、そのときのことを引きずって苦しんだりしますよ(あのときああ言ったのは失言だったのではないかと心配になったりして、ね?)。ひとが車にひかれそうになったのを目撃したあと、いつまで経っても胸の高鳴りが止まらないとか、自分が陰口をたたかれていると偶然知ったあと夜うまく眠れない日がつづくとか、悪口を言っているところを本人に見つかってしまったときのことを何年経ってもふと思い出し、脂汗まみれになるとか、大震災を経験して以来人生観がガラと変わったとか、宝くじが外れてヤル気が出ないとか、とかく人間は過去を引きずっていろいろと苦しみますよね。


 でもそれは、誰だってよく知っている当たりまえのことですね。大抵のひとはそうしたことを実際、経験しますよね。


 ひとが、戦場での体験を帰還後も引きずって苦しむとしても何ら不思議ではないし、事件のときの模様を不意にありありと思い出してつらい思いをするとしても何らおかしなことはないと、みなさん、思いますよね?


 だけど、そうした誰にでも「理解可能」で、共感できる人間のありようを、精神医学はいつからか、不当にもPTSDという異常であると決めつけ、わざわざ「理解不可能」であるということにしてきました。


 そのことに関して、たとえば、岩波明精神科医は著書『精神疾患』(角川ソフィア文庫、2018年)で、こういう興味深いことを言っていますよ。

 このような例とは別に、精神疾患を「病気としてとらえる場合注意すべき点がある。(略)


 戦闘やテロの現場に遭遇し、人間が殺害される場面を目撃すれば、それは重大なストレスになる。本人が事件の当事者であればもちろんのこと、通りすがりのものであったとしても、その衝撃は大きい。


 惨劇の場面を目撃した「正常」な反応においても、しばらくの間感情が麻痺した呆然として状態が続き、その後強い恐怖感が襲ってくることが普通にみられる。あるいは殺戮のシーンが繰り返し、頭に浮かんできて離れないかもしれない。被害者の断末魔の叫び声、銃弾の響き、あるいは血まみれになった遺体や引きちぎられた四肢のイメージから片時も逃れられないこともある。


 二〇〇八年に制作され、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたイスラエル映画戦場でワルツを」は、ベイルートで起きたパレスチナ難民虐殺事件に兵士として参加した主人公アリのその後を描いたものである。事件から二十年以上が経過し、アリはイスラエルで社会人として普通に生活していた。しかしアリは戦闘場面を繰り返し回想し、不安や恐怖感がそのたびに出現した。毎晩のように悪夢に悩まされたアリは、一方で事件の記憶の一部を忘却していた。


 このような状態は、今日では「PTSD(外傷後ストレス障害)」という精神疾患と診断される。しかしアリの反応は病的なものであろうかむしろ大量殺戮を目撃した当事者としては自然な反応である。強い感情的な反応を「病的」な疾患と決めつけてしまうことが適切かどうか、もう一度、検討する必要がある(同書pp.12-14、ゴシック化は引用者による)。

精神疾患 (角川ソフィア文庫)

精神疾患 (角川ソフィア文庫)

 


 映画を見ていた岩波精神科医には、アリさんの反応が「理解できた」のでしょうね。よって岩波精神科医は、アリさんのその反応を、PTSDという異常と判定し、「理解不可能」であるということにする(精神)医学の診断に、疑問を覚えることになったということでしょうね。


「あのひとは、過去にひどい体験をして、いまも苦しんでいる」とでも言えば十分、誰にでも「理解可能」であるこうした、アリさんが示すような反応を、(精神)医学は不当にも、PTSDという異常であると決めつけ、わざわざ「理解不可能」であるということにします。で、言うわけです。


「世間にはPTSDについて十分な理解が広まっていない」


「誤解がまだまだ根強い」


「精神医学による啓蒙が欠かせない」


 そして世間に、そのひとたちのことを「理解不可能」と思わせる、誤ったイメージを流布するわけです。たとえば、壊れた機械に喩えるイメージのようなものを。


 今回、見てきたことを最後にまとめますね。





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*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


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医学を勉強するほど、人間理解力は低下する(2/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.7


◆ひとが当初、「理解できない」場合(例、統合失調症

 あるひとがいて、そのひとのことが当初、理解できないとまず仮定してみてくれますか。でも、この世に「理解不可能」なひとなどただのひとりも存在し得ないということでしたよね。だとすると、当初は理解できないそのひとのことも理解しようと努めればいつか理解できるようになるということになりますね?


 したがって、1の場合は、こう言えます。


 そのひとのことを不当にも異常と決めつけ、「理解不可能」であることにするというのは、そのひとのことを理解するのを放棄するということである、って。そんなことをしていると、人間を理解する力はいっこうに伸びていかなくなる、って。


 さて、(精神)医学がそのように「理解するのを放棄する」ひとたちの代表例として、統合失調症と診断されるひとたちを挙げることができるのではないかと俺、思います。

 まだ駆け出しだった頃、先輩医師の診察につき添って訓練していたあるとき、保護室に長い間閉じ込められている若い女性の患者の診察に立ち会うことがあった。(略)彼女の状態は、悲惨なまでに纏まりを失っていた。限界量一杯まで安定剤を投与されていたにもかかわらず、言葉も支離滅裂に近く、幻聴も常に聞こえているという状態で、彼女が喋ると、二人が一度に喋っているようだった。医師との会話も、まったくトンチンカンなものにならざるを得なかった。


 だが、私はそばで話を聞いているうちに、支離滅裂にしか聞こえない話ではあるが、彼女が心の中で何を思い何を言いたいのか何となくわかってきたのだ。しかしそれが医師にも看護師にも伝わらずに、彼女はもどかしげであった。(略)


 専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ了解不能で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能であることがこの病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司統合失調症PHP新書、2010年、pp.29-30)。

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

 


 みなさん、どうですか。(精神)医学がこのように、そのひとたちのことを理解するのを放棄してしまえば、世間も、そのひとたちのことを理解しようとするのは無駄なことだと誤解してしまうのではないかと思いません? そうして世間のひとたちの人間理解力が成長するのを阻害することになるのではないかと思いません?


 つぎは、2の場合を見てみますよ。





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医学を勉強するほど、人間理解力は低下する(1/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.7

目次
・2点復習
・ひとが当初、「理解できない」場合(例、統合失調症
・ひとが最初から「理解できる」場合(例、PTSD
・結論(医学を勉強するほど人間理解力は低下する)


◆2点復習

 今回は、(精神)医学を勉強するほど人間理解力が低下するということを確認しますね。


 最初につぎの二点を再確認してから本題に入ることにしましょうか。

  • ひとはみな「理解可能」である。
  • (精神)医学は一部のひとたちを「理解不可能」と決めつけて差別してきた。


 では、はじめますね。


 ずいぶんまえに、健康、病気とはそれぞれ何であるか確認したの、ひょっとして覚えてくれていますか。こういうことでしたよね。ふだんのみなさんにとって、「健康」という言葉は、「苦しまないで居られている」ことを表現するためものである。かたや「病気」という言葉は、「苦しんでいる」ことを、その苦しみが手に負えないようなときに表現するためのものである、って?


 つまり、みなさんがふだん、「健康」であるとか「病気」であるとかとしきりに言うことで争点にするのは、苦しまないで居られているか、苦しんでいるか(快いか、苦しいか)、である、って。


 でも、医学は健康を正常であること病気を異常であることと定義づけてやってきましたね? そうして、ひとを正常なものと異常なものとに二分してきましたね?

 

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上記のことを確認したのはつぎの記事ででした。

(注)後日そのことを、下の記事でもっと簡単に確認します。

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 ひとをそのように、正常なものと異常なものとに二分するというのは  これも先日確認しましたように  ひとを理解可能なものと理解不可能」(専門用語で言えば、了解不能なものとに分けるということを意味します。

  • A.ひとを正常と判定するというのは、そのひとを「理解可能」と認定するということ。
  • B.ひとを異常と判定するというのは、そのひとを「理解不可能」と認定するということ。

 

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先日この記事で確認しましたね。

(注)後日そのことを、下の記事でもっと簡単に確認します。

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 けど、異常で、「理解不可能」なひとなど果して、この世に存在するでしょうか。


 ちょっと思い出してみてくださいよ。異常なひとなどこの世にただのひとりも存在し得ないんだって以前、確認しましたよね? 言うなれば、ひとはみな正常なんだ、って?

 

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この記事で確認しましたよ。

(注)そのことも、後日、下の記事でもっと簡単に確認します。

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 この世に、異常で、「理解不可能」なひとなどただのひとりも存在し得ませんね? 言うなれば、ひとはみな正常で、「理解可能ですね?


 なのに(精神)医学は一部のひとたちを不当にも、異常で、「理解不可能であるということにして差別してきたわけです。


 さあ、いま、冒頭で挙げましたつぎの二点を再確認し終わりましたよ。

  • ひとはみな「理解可能」である。
  • (精神)医学は一部のひとたちを「理解不可能」と決めつけて差別してきた。


 ここから本題に入りますね。(精神)医学を勉強するほど人間理解力が低下するということをいまから確認していきますよ。


(精神)医学は一部のひとたちを不当にも、「理解不可能」であるということにして差別します。その差別はつぎのふたつの場合に分けることができます

  1. そのひとが当初、「理解できない」場合
  2. そのひとが最初から「理解できる」場合


 このふたつの場合を順にそれぞれ見ていきますね。





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理解不可能(了解不能)な人間がこの世に存在しないことを確認する(4/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.6


◆結論(理解不可能な人間はこの世に存在し得ない)

(精神)医学は、健康を正常であること、病気を異常であることと定義づけてやってきたということでしたよね。そうしてひとを、正常なものと、異常なものとに二分してきたんだ、って。


 でも、以前にこういうことを確認したの、みなさん、覚えてません?


 実は、異常なひとはこの世にただのひとりも存在し得ないんだ、って言うなれば、ひとはみな正常なんだ、って。

 

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そのことを確認したのは「短編NO.2」ででしたよ(参考記事)。

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 以前に確認したそのことに、いまさっき得た結論1と2を考え合わせてみてくださいよ。するとどうなります?


異常なひとはこの世にただのひとりも存在し得ない」というのは、「理解不可能なひとはこの世にただのひとりも存在し得ない」ということになりませんか。


 かたや、「ひとはみな正常である」というのは、「ひとはみな理解可能である」ということになりませんか。


 いま最後にわかったことを復唱しますね。

  • 「理解不可能」なひとはこの世にただのひとりも存在し得ない。
  • ひとはみな「理解可能」である。


 今回は、「理解不可能」なひとはこの世にただのひとりも存在し得ないということを確認しました。ひとはみな「理解可能」であるということでしたね。


 にもかかわらず、(精神)医学が一部のひとたちを不当にも、「理解不可能であるということにして差別してきたということも、今回、同時に明らかになりましたね。





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*今回のものより、もっと簡単な方法で、「理解不可能な人間はこの世に存在し得ない」というこのことを、後日、確認した回はこちら。


*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.5)はこちら。


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理解不可能(了解不能)な人間がこの世に存在しないことを確認する(3/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.6


◆正常、異常の意味を突きつめる

 さあ、いま獲得しましたふたつの等式については、あとでまた持ち出すこととして、つぎは、正常、異常という言葉の意味をすこし掘り下げてみることにしましょうか。


(精神)医学は、健康を正常であること、病気を異常であることと定義づけてやってきましたよね。そうして、ひとを正常なものと異常なものとに二分してきましたよね。

 

正常と病理 (叢書・ウニベルシタス)

正常と病理 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

 そのようにひとを、正常もしくは異常と判定するというのは何をどうすることだったか、みなさん、覚えていますか。

 

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そのことは「短編NO.1」で確認しましたよ(参考記事)

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 ひとを正常と判定するというのは、

  • ①そのひとを、「(ひとの)作り手の定めたとおりになっている」と見、
  • ②その「作り手の定めたとおりになっている」ことを問題無しとすること、


 いっぽう、ひとを異常と判定するというのは、

  • ①そのひとを、「作り手の定めたとおりになっていない」と見、
  • ②その「作り手の定めたとおりになっていない」ことを問題視すること、


 であるとのことでしたよね。


 この「作り手の定めたとおりになっている」とか「なっていない」とかいうことについて、いまからすこし見ていきますよ。


 この「作り手の定めたとおりになっている」「作り手の定めたとおりになっていない」というのは、つぎのように言い換えられるとみなさん、思いません?


 理に叶っている理に叶っていない、に。


 だって、「作り手の定めたとおり」にならないだなんて、道理に合わないこと(おかしなこと、理に叶っていないこと)ではありませんか。ほんとうに「定めた」のなら、かならず、その「定めたとおり」になるというのが、ものの道ではありませんか。 


 いま、「作り手の定めたとおりになっている」「なっていない」というのは、「理に叶っている」「理に叶っていない」と言い換えられると言いましたね。なら、先ほど復習した、正常と異常についてはこう言えるようになりません?


 ひとを正常と判定するというのは、

  • ①そのひとのことを「理に叶っている」と見、
  • ②その「理に叶っている」ことを問題無しとすること、


 いっぽう、ひとを異常と判定するというのは、

  • ①そのひとのことを「理に叶っていない」と見、
  • ②その「理に叶っていない」ことを問題視すること、


 である、って。


 ではここで、最初に獲得したふたつの等式を思い出してみるとしましょうか。そのふたつはそれぞれこういう等式でしたね。再掲しますよ。

  • 等式A:ひとを「理解可能」と認定する=そのひとのことを「理に叶っている」と認定する。
  • 等式B:ひとを「理解不可能」と認定する=そのひとのことを「理に叶っていない」と認定する。


 このふたつの等式AとBを、ちょうどいま確認しましたところに当てはめてみてくれますか。


 するとどうなります?


 こうなりません?


 ひとを正常と判定するというのは、

  • ①そのひとを「理解可能」と認定し、
  • ②その「理解可能」であることを問題無しとすること、


 いっぽう、ひとを異常と判定するというのは、

  • ①そのひとを「理解不可能」と認定し、
  • ②その「理解不可能」であることを問題視すること、


 である、って。


 よって、こう言えることになりませんか。

  • 結論1:ひとを正常と判定するというのは、そのひとを「理解可能」と認定するということ、
  • 結論2:ひとを異常と判定するというのは、そのひとを「理解不可能」と認定するということ、


 である、って。


 もうここまでくれば、あとひと息です。





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2020年1月25日に文章を一部、削除・修正しました。


*今回のものより、もっと簡単な方法で、「理解不可能な人間はこの世に存在し得ない」というこのことを、後日、確認した回はこちら。


*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.5)はこちら。


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理解不可能(了解不能)な人間がこの世に存在しないことを確認する(2/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.6


◆理解することの意味

 早速はじめましょう。


 誰かが笑っているものとまずみなさん、想像してみてくれますか。当初みなさんにはそのひとのことが理解できないと仮定しますよ。「可笑しいことなんて何もないのに、アイツ、何を笑っているのだろう。理解不可能だ」とみなさん、思っているとしますね。


 では、そのように笑っているのを理解不可能と見る、というのは、いったいどういうことなのか、考えてみましょうか。


 どうですか。それは、そのように笑っているのを理に叶っていないと見る、ということではありませんか。


 さて、しばらくして不意にみなさん、気づくとしますね。ちっちゃな子供が遠くのほうから、そのひとに向かって手を振っているのに。


 すると一転、みなさんはこう反省することになるのではありませんか。


「なんだアイツ、とかと思って、悪いことしたなあ」


 みなさんはそのひとのことが理解できるようになったわけですね。つまり、そのひとが笑っているのは理に叶っていると思えるようになったわけですね。


 いま、つぎのふたつの等式を獲得しましたよ。

  • 等式A:ひとを「理解可能」と認定する=そのひとのことを「理に叶っている」と認定する。
  • 等式B:ひとを「理解不可能」と認定する=そのひとのことを「理に叶っていない」と認定する。





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*今回のものより、もっと簡単な方法で、「理解不可能な人間はこの世に存在し得ない」というこのことを、後日、確認した回はこちら。


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理解不可能(了解不能)な人間がこの世に存在しないことを確認する(1/4)

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.6

目次
・この世に「理解不可能」な人間は存在するか
・理解することの意味
・正常、異常の意味を突きつめる
・結論(理解不可能な人間はこの世に存在し得ない)


◆この世に「理解不可能」な人間は存在するか

 みなさんはこの世に理解不可能な人間は存在すると思いますか


 たとえば(精神)医学はそうした人間が存在するとしますよね? 


 でも、ほんとうにそんな人間がこの世に存在すると、みなさん、思います?


 いま俺が手にもっている本、『統合失調症』(PHP新書、2010年)のなかで、著者の岡田尊司精神科医はこの件に関し、こう言っていますよ。

 われわれ人間は、他人の心を直接知ることはできないが、表情や言動、行動の意味するもの、つまり、背後にある感情や意図を推測することができる。その推測が、ときには的外れなことがあっても、もう少し言葉をやり取りしてコミュニケーションを深めることで、より正しい理解に辿り着き、相手が感じていること、相手が意味したことを共有することができる。これを、精神医学者であり哲学者でもあったヤスパースは「了解可能」と呼んだ。われわれは通常、了解可能な世界で暮らしているわけである。


 ところが精神病性の症状が起きているときは、幻聴に対して耳を澄ませたり、応えようと大声を上げたり、幻聴が命じるままに窓から飛び出そうとしたりということが起こる。周囲から見れば、その行動はまったく不可解である。理由を聞いても、聞けば聞くほど不可解な答えが返ってくる


 たとえばある女性は、布団を何枚も重ねて敷き、マスクをして寝た。理由を問うと、「一階に新しい住人が越してきて窓を開けるので、スースーして仕方がない。おまけに、タバコをぷかぷか吸うので、煙くて堪らない」とこぼした。もちろん一階と二階とでは、完全に仕切られているから、階下の住人が窓を開けようがタバコを吸おうが、影響はないはずである。だがその女性には、それがありありと感じられ、苦痛で堪らないのである。


 この女性の感じているものを、通常の常識で納得したり共有したりすることはできないヤスパースは、こうした状態を「了解不能」と呼んだのである。


 このヤスパースの定義は、非常に明快でわかりやすいものに思える。しかし実際にはことはそう単純ではない。たとえば、このケースの女性の行動や言動にしても、もう少し事情を聞くと、いくらか理解できるようになる。この女性は一度、この新しい住人が部屋の窓を開けて、タバコを吸っているところを目撃したことがあった。ところがすぐ上には、女性の布団が干してあって、女性はとても不愉快に思ったのだ。


「了解」できるかできないかは、明らかに情報量に左右されるし、表面的な行動だけで判断するか、内的な体験にまで踏み込むかでも違ってくる。「了解」する気がなければ「意味不明とか支離滅裂の一言で片づけられやすくなる。「了解不能といって片づけてしまうことはある意味実に容易である。「了解不能であるから正気を失っており精神病にかかっていると結論づけてしまえば、それは単なる症状にすぎず、患者が「意味不明」の言動によって何を意味しようとしたのかは、問題にするだけムダということになる。


 しかし、一見、意味不明で不可解に思える言動も、もう少し立ち入って話を聞いたり事情がわかってくると、なるほどと腑に落ちたり、その背後にある気持ちに共感を覚えたりすることは少なくないのである。


 ただ残念ながら、今日の精神医学は、そうした意欲や関心を次第になくしているようだ。精神医学という名前をもちながら、精神に対する関心をなくしているのである。非現実的な言動や行動は病気の症状として捉えられ薬物療法で消し去ることにだけ関心を注ぎがちである。もちろん、薬物療法によって症状を軽減することが重要なのは言うまでもない。幻覚や妄想は、放置すればするほど脳神経系が損傷されてしまうからだ。


 しかし同時に、その人が抱えた症状はただの病気の症状であって無意味であるとみなすことでは、その人が抱えている苦悩や、その症状によって伝えようとしたメッセージは、汲み取られないままに終わってしまう。それは、病気を引き起こしている周囲の問題に目を向ける機会を奪い、あたら再発を繰り返させてしまうことにもなる(同書pp.228-232、ゴシック化は引用者による)。

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

 


 引用がちょっと長くなりすぎましたね。


 ともあれ、岡田精神科医は言っていましたね。(精神)医学は一部のひとたちを「理解不可能」と認定し、精神病と診断するんだって主旨のことを。


 けど、こうも言っていましたね。一見、「理解不可能」と思われるひとたちも、理解しようと努めると、理解されてくることがあるんだ、って。


 みなさん、どう思います?


 (精神)医学が言うように、ほんとうに、「理解不可能」なひとはこの世に存在すると思いますか。


 今回は、(精神)医学のそうした見立てに反し、実は理解不可能なひとなどこの世にただのひとりも存在し得ないということを確認していきますよ。





         (1/4) (→2/4へ進む

 

 




2020年3月21日に文章を一部修正しました。


*今回のものより、もっと簡単な方法で、「理解不可能な人間はこの世に存在し得ない」というこのことを、後日、確認する回はこちら。


*前回の短編(短編NO.5)はこちら。


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