*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.7
◆ひとが当初、「理解できない」場合(例、統合失調症)
あるひとがいて、そのひとのことが当初、理解できないとまず仮定してみてくれますか。でも、この世に「理解不可能」なひとなどただのひとりも存在し得ないということでしたよね。だとすると、当初は理解できないそのひとのことも、理解しようと努めれば、いつか理解できるようになるということになりますね?
したがって、1の場合は、こう言えます。
そのひとのことを不当にも異常と決めつけ、「理解不可能」であることにするというのは、そのひとのことを理解するのを放棄するということである、って。そんなことをしていると、人間を理解する力はいっこうに伸びていかなくなる、って。
さて、(精神)医学がそのように「理解するのを放棄する」ひとたちの代表例として、統合失調症と診断されるひとたちを挙げることができるのではないかと俺、思います。
まだ駆け出しだった頃、先輩医師の診察につき添って訓練していたあるとき、保護室に長い間閉じ込められている若い女性の患者の診察に立ち会うことがあった。(略)彼女の状態は、悲惨なまでに纏まりを失っていた。限界量一杯まで安定剤を投与されていたにもかかわらず、言葉も支離滅裂に近く、幻聴も常に聞こえているという状態で、彼女が喋ると、二人が一度に喋っているようだった。医師との会話も、まったくトンチンカンなものにならざるを得なかった。
だが、私はそばで話を聞いているうちに、支離滅裂にしか聞こえない話ではあるが、彼女が心の中で何を思い、何を言いたいのか、何となくわかってきたのだ。しかし、それが医師にも看護師にも伝わらずに、彼女はもどかしげであった。(略)
専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ「了解不能」で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能」であることが、この病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司『統合失調症』PHP新書、2010年、pp.29-30)。
みなさん、どうですか。(精神)医学がこのように、そのひとたちのことを理解するのを放棄してしまえば、世間も、そのひとたちのことを理解しようとするのは無駄なことだと誤解してしまうのではないかと思いません? そうして世間のひとたちの人間理解力が成長するのを阻害することになるのではないかと思いません?
つぎは、2の場合を見てみますよ。
*前回の短編(短編NO.6)はこちら。
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