(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

快さとは何か、苦しさとは何か、実例を挙げてご確認いただく①

*科学するほど人間理解から遠ざかる第7回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると、精魂こめて確認してきました *1


 せっかくです、快さと苦しさがそれぞれそうしたものであることを、例をもちいて、順にご確認いただくとしましょう。


 みなさん、ご自身が強い快さを感じておられる瞬間をひとつ思い描いてごらんください。「うまいうまい」と夢中で食事を楽しんでおられる瞬間でも結構ですし、温泉につかっておられる至福の瞬間でも、あるいは温泉からあがられたあと、腰に手を当ててフルーツ牛乳をお飲みになっている瞬間でも、また夜、布団にお入りになったときのあの超絶気持ちいい瞬間や、仕事が終わった直後の開放感ハンパない瞬間でも、かまいません。


 えっあっ、もちろん、セクシュアルな瞬間をお挙げになってもまったくさしつかえありません……そのほか、つぎのように表現される瞬間をご想起くださってもなんら問題ありません。具合が良い(具合の良さを感じている)、調子がいい、楽しい、リラックスしている、安心している、伸び伸び(と何かを)している、夢中になっている、集中している、没頭している、喜んでいる、嬉しい、意欲がみなぎっている、燃えている(ガッツポーズしているときなど)、しゃきっとしている、すっきりしている、見とれている(美を感じている)、聞き惚れている(美を感じている)、いい匂いを嗅いでいる、うっとりしている、ほっとしている、迷いがない、生きがいを感じている等々。


 ともかく、強い快さを感じておられる瞬間をひとつ、ご想像ください。


 そのように強い快さをお感じになっているというのは、「今どうしようとするか、極めてはっきりしている」ということであると言えはしないでしょうか。「今どうしようとするか、はっきりしている」ほど、快さをより強く感じていると言えるのではないでしょうか*2


 どうでしょうか、みなさん?


前回(第6回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:ここはつぎのようにも表現できると申しました。快さを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いをかなり解決しているということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いをあまり解決していないということである。

*2:ここはこうも申せます。そのように強い快さをお感じになっているというのは、「今どうしようとするか」という問いがとても解決しているということであると言えはしないでしょうか。「今どうしようとするか」という問いが解決しているほど、快さをより強く感じていると言えるのではないでしょうか、と。

快さとは何か、苦しさとは何か②

*科学するほど人間理解から遠ざかる第6回


「〜中」とか「〜している/していた」といった表現はこのように、「〜しようとしている/しようとしていた」と言い換えられます。したがって、生きておられるあいだどの瞬間でもみなさんが身をもってお答えになる、「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いも、「今・どう・しようとするか」という問いであると言い換えられます(「今」という言葉で「今という一瞬」を指している旨、くどいですが、再確認お願いします)。


 さて、先につぎのことを確認しました。

.生きておられるあいだみなさんはどの瞬間でも、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになる。

.身をもって「今」を出来事の最中とすることこそ、行動とか行為とか運動とかとよばれるものである。

.身をもって「今」を出来事の最中とする堅固さが強ければ、快さを感じていると表現し、身をもって「今」を出来事の最中とする堅固さが弱ければ、苦しさを感じていると表現する。


 で、ちょうどいま確認しましたとおり、みなさんが生きておられるあいだ一瞬ごとに身をもってお答えになる「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いは、まったく意味を変えずに、「今・どう・しようとするか」という問いであると言い換えられるとのことでした。


 となりますと、こう申せます。

.みなさんは生きておられるあいだどの瞬間でも、「今・どう・しようとするか」という問いに身をもってお答えになる。

.身をもって「今・しようとしている」ことこそ、行動とか行為とか運動とかとよばれるものである(身をもって「今・なにを・しようとしている」かを言えば、どんな行動をしているか表現していることになる)。

.そのように身をもってお答えになっているときに「今どうしようとするか、かなりはっきりしてい」れば、快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていな」ければ、苦しさを感じていると表現する*1

つづく


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

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ひとつまえの記事(①)はこちら。


前回の記事(第5回)はこちら。


それ以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:ここはつぎのように表現したほうがわかりやすいでしょうか。 

「今どうしようとするか」という問いをかなり解決していれば、快さを感じていると言い、「今どうしようとするか」という問いをあまり解決していなければ、苦しさを感じていると表現する、と。

 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いをかなり解決しているということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いをあまり解決していないということであるといった言い方をすることもできるように思われます。 

 ただし本文中では、こうした「問いを解決している/解決していない」といった言い方の代わりに、身体感覚の感じをより連想させる「はっきりしている/はっきりしていない」といった表現をもちいました。

快さとは何か、苦しさとは何か①

*科学するほど人間理解から遠ざかる第6回


 冒頭でいきなり、快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると申し上げ、みなさんにマメ鉄砲を喰らわしてしまったあと、汚名返上(?)とばかりにその補足解説に努めているところです。


 先ほどこういったことを確認しました(以下、「」というひと言で、「今という一瞬」を表現しているものと、引きつづきお考えください)。みなさんは生きておられるあいだどの瞬間でも、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになる。そうして身をもって「今」を出来事の最中とする堅固さが強ければ、快さを感じていると言い、身をもって「今」を出来事の最中とする堅固さが弱ければ、苦しさを感じていると言うのである、と。


 これを、もっとくだけた表現に言い直してみます


 みなさんが生きておられるあいだどの瞬間でも身をもってお答えになる問いを、「今をどういった出来事の最中とするか」と表現してきました。まずこれを意味はそのままで言い換えます。


 先刻みなさんにこう申しました。ご自身のいまこの瞬間の状態を俺にご教示くださいとお願いしますと、みなさんはきっと、会話中である、食事中である、「おたくの話を聞いている最中ですよ」といったように「〜中」とお答えになるか、会話をしている、食事をしている、「安心してください、おたくの話、聞いていますよ」といったように「〜している」とお答えになるのではないでしょうか。またみなさんの過去のある一瞬の状態についてお尋ねしても、やはり「〜中」もしくは「〜していた」といった表現をもちいてお答えくださるのではないでしょうか、と。


 しかしひょっとすると、そのように「会話中である」とか「会話をしている」とお答えくださる代わりに、「相手と和解しようとしている」とお答えになったり、「食事中だった」とか「食事をしていた」とお答えくださる代わりに、「通学・通勤しようとしていた」とお答えになる、もしくは、「おたくの話を聞いている最中ですよ」とか「おたくの話、聞いていますよ」とお答えくださる代わりに、「おたくをねウフフ完膚なきまでに叩きツブそうとしているんですよ」とお答えになったりする、といったようにみなさん、「〜しようとしている/〜しようとしていた」といった文末表現をもちいてお答えくださったかもしれません。


 これはどういうことでしょうか。


 みなさんは生きておられるあいだどの瞬間の状態を俺にご教示くださるときにも、「会話中」であるとか「食事をしていた」とか「話を聞いている」といったように、渦中におられる(おられた)出来事(会話、食事、聴取)に着目して「〜中」もしくは「〜している/していた」と表現なさることもおできになるが、渦中におられる(おられた)出来事の行き着く先(和解、登校・出社、全否定)に着目して「〜しようとしている/しようとしていた」といったふうにおっしゃることもできる、ということです。


 たとえば「会話中(会話している)」というのは、渦中にある会話という出来事の行き着く先である相手との和解を表現のなかに入れ、「相手と和解しようとしている」といったふうにもおっしゃれますし、「食事中(食事をしていた)」というのも、渦中にある食事という出来事の行き着く先である登校・出社を表現に反映して、「通学・通勤しようとしている」とおっしゃれます。「おたく(俺のこと)の拙い話を聞いている最中(聞いている)」というのも、渦中におられる聴取という出来事の行き着く先である俺にたいする全否定に着目して、「おたくを完膚なきまでにブチのめそうとしている」と表現なさることもおできになるというわけです。


前回(第5回)の記事はこちら。


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みなさんは身をもって「今」を、出来事の最中としつづける

*科学するほど人間理解から遠ざかる第5回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると最初に申し上げましたところをみなさんにご理解いただくべく、補足解説させていただいている最中です(「」という言いかたで「今という一瞬」を表現しようとしている旨、ご理解ください)。


 ちょうどいま、こう確認しました。みなさんは生きておられるあいだ、どの瞬間でも「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになる、と。


 ではちょっとみなさん、ご自身が、俺の家に、駅もしくはバス停から歩いていらっしゃる場面をご想像くださいますでしょうか。そうして歩いておられるあいだのどの一瞬をとっても、みなさんが、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになっていることをまずご確認ください。


 どの瞬間でもみなさんが身をもって「今」を、俺の家へ歩いていくという出来事の最中となさっているのをご確認くださいましたでしょうか。


 このように身をもって「今」を出来事の最中とすることを、行動とか行為とか運動とかとよぶんじゃないかとは先に申しましたとおりです。


 しかし、です。招待された俺のお誕生日会に出席しようとなさっているその場面のみなさんは、俺の自宅会場に向け、果してどのように歩いておられるのでしょう。想像力に乏しい俺にでもすぐにつぎの三つの可能性くらいは思いつきます  

  1. 行くか帰るか迷いながらお歩きになっている。
  2. 重い足どりでイヤイヤお歩きになっている。
  3. ウキウキした気分でお歩きになっている(ずっとこの日を楽しみにしておられた)。


 これら以外にも可能性は考えられるかもしれませんが、いまからこの三つをもちいてひとつ、快さと苦しさについて考察させてください。


 この3つのいずれの場合であっても、みなさんが終始、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに身をもってお答えになっていることに変わりはありません。みなさんはいずれの場合でも、駅もしくはバス停を立たれてから、俺の自宅にお着きになるまでのあいだずっと、身をもって「今」を、俺の家へ歩いていくという出来事の最中とされつづけます。ですが、これら3つの場合同士のあいだには、ちがいがあります。


 何がちがっているでしょう?


 身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさる意気込みと申しますか、堅固さと申しますか、没入度と申しますかが、ちがっていると申し上げられるのではないでしょうか(以後、堅固さ、という言い方をもちいていきます)。


 再度、上記1から3をご想像ください。


 ウキウキした気分でお歩きになっている3の場合、みなさんが身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさっているその瞬間その瞬間の堅固さは、かなりゆるぎがないと言えそうであるいっぽう、1の場合はどうでしょう。みなさんはお歩きになっているあいだ終始、行くか帰るか迷っておられます。身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさる堅固さはどの瞬間でも、俺の生活のようにひどくグラついていると申せます。


 水のなかをお歩きになっているかのように足どりが重い、イヤイヤお歩きになっている2はどうでしょう。その場合でも、身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさっているその瞬間その瞬間の堅固さは、ウキウキとお歩きになっている3の場合と比べてはるかに弱いと言うべきではないでしょうか。


 では、身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中とする堅固さが強かったり(3)、弱かったり(1と2)するといったこうしたちがいは何を意味するのでしょう


 3の場合ではみなさんウキウキとした気分でお歩きになっています。快さをお感じだと申せましょう。かたや、行くか帰るか迷っておられる1の場合や、イヤイヤお歩きになっておられる2の場合、みなさんは苦しんでおられると申し上げられるように思います。


 身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中とする堅固さが強いか弱いかというちがいは、快さを感じているか苦しさを感じているかというちがいに相当するのではないでしょうか。


 つまり、快さを感じているというのは、身をもって「今」を、出来事の最中とする堅固さが強いということであり、かたや苦しさを感じているというのは、身をもって「今」を、出来事の最中とする堅固さが弱いということなのではないでしょうか。

つづく


前回(第4回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

みなさんは生きておられるあいだ、毎瞬、何をなさっているか

*科学するほど人間理解から遠ざかる第4回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると申しました。快さを強く感じていればいるほど、「今どうしようとするか、よりはっきりしている」と言え、苦しさを強く感じていればいるほど、「今どうしようとするか、よりはっきりしていない」と言えるとのことでした。


 俺がいったい何を申し上げているのか、いまから補足解説させていただきます


 先ほど、「」という言いかたで、「今という一瞬」を表現することにしますと宣言申し上げたことをここであらためてご想起のうえ、以下お聞きください。


 いきなりですが、みなさん、いまこの瞬間のみなさんの状態を俺にご教示くださいとお願いしますと、どうお答えくださるでしょうか。


 おそらくどなたも、会話中であるとか、食事中であるとか、歩いている最中であるとか、「おたくの話を聞いている最中にきまっているじゃないですか」といったように、「〜中」といった表現をもちいてお答えくださるか、もしくは、会話をしているとか、食事をしているとか、歩いているとか、「安心してください、おたくの話を聞いていますよ!」といったように、「〜している」といった表現形式を使ってお答えくださるのではないでしょうか。


 ご自身の過去の思い出のなかからお好きな瞬間のをひとつお選びになって、そのときのご自身の様子をご教示くださいと俺がお尋ねしてもおなじことでしょう。どなたもみな、世界を放浪中だったとか、学校もしくは職場で活躍中だったとか、熱愛中だったというように「〜中」とお答えになるか、世界を放浪していたとか、学校もしくは職場で活躍していたとか、「何をしていたかなんておたくには言えませんねムフフ」といったように「〜していた」といった言いかたでお答えくださるのではないでしょうか。


 では、ご自身のいまこの瞬間の状態や過去のある一瞬の状態を、「〜中」とか「〜している/していた」といった形でみなさんお答えくださるというこのことは何を意味するのでしょう?


 それが意味するのは、生きておられるうちのどの瞬間をとっても、みなさんは、出来事の最中におられるということです。


 もっといえば、みなさんは生きておられるあいだどの瞬間でも、「(という一瞬)をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになるということです。


 ちょうどいまから25分38秒まえの俺は、その瞬間の「今」を、トイレに行くという出来事の最中としていました(その瞬間、俺はトイレに向かっている最中だったとか、トイレに向かっていたと表現できます)。みなさんはその瞬間、「今」をどういった出来事の最中となさっておいででしたか? その瞬間の「今」を、朝食を作るという出来事の最中となさっておられた?(なら、朝食を作っておられる最中だったとか朝食を作っておられたとおっしゃれます。)それとも、ミントの香りのする一陣の風のようにさわやかに学校もくしは職場に行くといった出来事の最中としておられた?(なら、通学もしくは通勤中とか、通学もしくは通勤していたとおっしゃれます。)


 まさにそのように身をもって「今(という一瞬)」を出来事の最中とすることをこそ、みなさんはふだん、行動とか行為とか運動とおよびになっているんじゃないでしょうか。

つづく


前回(第3回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

じゃあ、快さや苦しさは何なのか

*科学するほど人間理解から遠ざかる第3回


 西洋学問ではこれまで快さや苦しさは何であるか理解されてこなかった、と大胆にも申し上げました、その実、膝をガクガク言わせながら。


 そう申し上げれば、どうなるか。


「じゃあ、快さや苦しさとはいったい何なのか、俺よ、偉そうな口をききやがって、みなさんのまえで申し上げてみろ!」となり、一気に俺の胃はカッチカチ、顔面は脂汗でテッカテカと化すのが自然ではないでしょうか。


 では、自身、快さや苦しさを何と考えるか、いまから、おそれ多くも、謹んで申し上げます


 みなさんは、どんなときに快さをお感じになりますか。お食事をなさっているときですか。温泉につかっておられるとき? 仕事から解放された瞬間? それとも夜、布団にお入りになったとき?


 みなさん、ご自身が快さをお感じになっている場面をひとつありありとご想起ください。えっ、ああもちろんセクシュアルな場面を思い描いていただいても結構です……。


 あっ、なんなら、苦しんでおられる場面を代わりにご想起くださってもよろしいかと。たとえば、腹痛がしているとき、緊張しておられるとき、不安で居ても立っていられないとき、寒さに震えておいでのとき、真っ青になって人生の岐路で悩んでおられるとき等々といった。


 さあ、快さもしくは苦しさを感じておられる場面をひとつよくご想起になりながらお聞きください。積極果敢にその状態をいまから言葉で表現します。


 申します。以後、「」という言葉で、「今という一瞬」を言うものとお考えください。


 快さを感じているというのは、今どうしようとするか、かなりはっきりしているということであり、かたや苦しさを感じているというのは、今どうしようとするか、あまりはっきりしていないということである。


 快さを強く感じていればいるほど、「今どうしようとするか、よりはっきりしている」と言え、苦しさを強く感じていればいるほど、「今どうしようとするか、よりはっきりしていない」と言える。


 快さ苦しさとは、「今どうしようとするか、はっきりしている」程度のことである。


 ……ううむ、みなさん、ハトがマメ鉄砲を喰らったような顔をしておられる……やっぱり黙っていればよかったか……ああ、淋しい……


 いやいや! 俺にはいまのところ、快さ苦しさをこれ以上わかりやすく表現することはできませんけれども(いつまで経ってもそうだろうと日夜、涙にかきくれております)、いま申し上げましたところにこれから補足解説を加えれば、きっと「察しの鬼」と言われるみなさんのことです、いまお聞きいただいた快さ苦しさの表現をご理解くださるんじゃないでしょうか。そして、みなさんが快さや苦しさとはこんなものだろうと長らくお考えになってきたところと、俺が拙い表現力でいま言葉にしましたところとが実はおんなじであるとおわかりくださるんじゃないでしょうか。


 じゃあ、めげずにいまからその補足解説とやらにとりかかるといたしましょう。

つづく


前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

治療がときにひどくつらいことが示す意味

*科学するほど人間理解から遠ざかる第2回


 西洋学問ではこれまで、快さ苦しさは何であるか理解されてこなかったと最初に申し上げ、そのことは、健康や病気についてすこし考えてみるだけでもすぐ明らかになると申し添えました。


 本題に入るまえにもうしばらくグダグダ言わせてもらえますか。


(いきなり、本題に入る方は第3回へ)


 最後に、治るとは何かという観点からもすこし見ておきましょう。


 先ほどこう申しました。ふだんのみなさんにとって、健康という言葉は、「苦しまないで居られている」ことをを表現するものであるいっぽう、病気という言葉は、「苦しんでいる」ことを、その苦しみが手に負えないようなときに表現するためのものである、と。実際、そんなみなさんにとって、治るとは「苦しまないで居てられるようになる」ことを意味するのではないでしょうか。


 しかし、医学がみなさんに勧める治療には、受けるとしばしば、副作用とか毒性とか副反応とかとよばれる苦しみをあらたにこうむることになるものがあります。したがってみなさんはそうした治療を受けるかどうかお決めになるさい、その治療を受ける場合と、治療を受けない場合のふたつをまずご想像になって比較考量なさいます。そして前者の、治療を受ける場合のほうが、治療を受けない後者の場合より、「苦しさがマシなものになるとご判断になれば、「」をするとおとりになり、こう結論づけられます。


 そうした「得」を打ち消すくらい、その治療によって生存期間が短くなるというのでなければ、その治療を受けよう、と。


 反対に前者の、治療を受ける場合のほうが、治療を受けない後者の場合より、「苦しさが酷いものになるとご判断になれば、「損」をするとおとりになり、こう結論づけられます。


 そうした「損」を埋め合わせるくらい、その治療によって生存期間が延びるということでもなければ、その治療を受けることはできない、と。


 ところが、医学は患者に治療を施すかどうか決めるさい、そうした比較考量をしてきませんでした(していた誠実な医師もいたでしょうけれども)。


 健康を正常であること、病気を異常であることと定義する医学にとって、治るとはあくまで正常になること、にすぎません。医学は、患者が正常になるかどうか、や、異常にならないかどうか、しか考えません。あるいはせいぜい考えても、治療によって生存期間が延びるかどうかしか考えません。肝心の快さ苦しさについては、して当たりまえの配慮さえ怠ってきました。治療によってどんなに苦しくなっても(ただし死に直結するような重篤なものは除く)、我慢して当然であるとしてきました。


(現在に至ってもなお医学は、「苦しまないで居てられるようになる」ことを二の次にし、「延命」を第一に考えているのではないかと俺にはちょっと思われます。「15年前」なんかはもう何と言っていいか。)


 なぜ医学にはそんなにまで、肝心の快さ苦しさへの配慮を怠ることができたのでしょうか。


 そんなことが医学にできたのも、やはり、そもそも快さ苦しさが何であるか理解できていなければこそなんじゃないでしょうか。


 さあ、ようやく、グダグダ申し終わりました。遅ればせながら本題に入ります。


 この文章では、冒頭で宣言しましたように、快さ苦しさが何であるか確認します。


 以下、目次です、おおざっぱな。

第1部.快さ苦しさとは何であるか確認する*1

第2部.西洋学問ではなぜ快さ苦しさを理解できてこなかったのか確認する*2

第3部.西洋学問では快さ苦しさをどのようなものと解するのか確認する*3

つづく


2019年11月8日に文章を一部修正しました。また翌9日に、方向性はそのままに、内容を変更しました。


前回(第1回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:このシリーズの第3回から第7回までが第1部に当たります。

第3回


第4回


第5回


第6回


第7回 (第1部最終)

*2:第2部は第8回から第19回③までです。

第8回


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


第17回


第18回


第19回(第2部最終)

*3:第3部は第20回から第31回までです。ちなみに第32回がこのシリーズの最終回です。

第20回


第21回


第22回


第23回


第24回


第25回


第26回


第27回


第28回


第29回


第30回


第31回