*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.50
◆科学が事のはじめに為すふたつ目の作業、「存在の客観化」
前回、「絵の存在否定」を、電柱を例に見ました。引きつづき、その例を用いて、考察を進めていきますね。
「絵の存在否定」という作業を為すと、俺が現に目の当たりにしている、前方数十メートルのところにある電柱の姿は一転、俺の心のなかにある映像であることになるということでした(A)。で、前方数十メートルのその場所にほんとうに実在している電柱は、見ることができないものであることになる(B)、とのことでしたね。
そのように、電柱が見ることのできないものとなると、どうなるか。
その電柱(あくまで科学が電柱と考えるもののことですよ)は、俺が目をつぶろうが、目を開けようが、望遠鏡を使って見ようが、度の合った眼鏡をかけて見つめようが、サングラスを掛けて眺めようが、近寄って行こうが、背を向けようが、反対に遠ざかっていこうが、そんなことにはお構いなしに見えないまま、ということになりますね。みなさんが下から仰ぎ見ようとも、逆に高層ビルの上層階から見下ろそうとも、はたまた太陽が雲間から顔を出していようが、反対に雲間に隠れていようが、そんなことにも一切お構いなしに見えないまま、ということになりますね。
そこから科学はこの電柱のことを一気にこう決めつけます。
電柱は、ただただ無応答で、そこ(それが在るところの場所のこと)に在るものだ、って。
要するに、客観的なものだ、って。
この誤った決めつけこそ、科学が事のはじめに立てつづけに為すふたつの存在改悪作業の残りひとつ、「存在の客観化」です。
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この作業について寺田寅彦が語った文章があります。
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だって、電柱は実際、「ただただ無応答で(そこに)在るもの」なんかではありませんね? ちょっといまから確かめてみますよ。
*前回の短編(短編NO.49)はこちら。
*これのpart.1はこちら(今回はpart.4)。
*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。