*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.51
目次
・科学はこの世の存在をすべて「のっぺらぼう」に変える
・科学が事のはじめに為すふたつ目の作業、「存在の客観化」
・物は、言ってみれば、周りの空気を読むものである
・身体も一瞬一瞬答えるものである、「他のものたちと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに
・音もまたしかり(読み飛ばしてもらっても支障無し)
・「存在の客観化」とは存在のすり替え作業
・存在の本質は「どこに位置を占めているか」に
◆科学はこの世の存在をすべて「のっぺらぼう」に変える
機械ではない身体を、なぜ医学が機械と見なすのか、いまそれを確認しようとしているところです。
とはいえ、身体が機械だとか機械ではないとか、といったことを論じるのは重箱の隅をつつくようなツマラナイことだと思うひともいるかもしれませんね。だけど、機械ではない身体を機械と見なすこのボタンの掛け違いが、医学に深刻な帰結をもたらしてきたことは以前に確認したとおりです。前回の冒頭でもくり返しましたよね。今回はもうふり返りませんよ。でも、少なくないひとたちがその帰結のおかげで医療から、理不尽な損害をこうむってきた、ということでしたね。
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理不尽な損害1(訴えと要望が聞き入れられない)
理不尽な損害2(重篤な副作用もたいしたことがないものと扱われる)
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では、さっそく前回のつづきに入ります。
最初に、機械ではない身体を、科学が如何にして機械と見なすに至るか、その経緯のあらましを、ざっと素描しました。こういうことでした。
科学は事のはじめに「絵の存在否定」「存在の客観化」と俺がそれぞれ呼ぶ、ふたつの作業を立てつづけに為し、存在(物、音、匂い、味等々)を改悪する。その過程で、機械ではない身体が機械と見なされるに至るんだ、って。
そして、その経緯の詳細を、前回から確認しはじめました。前回は、科学が事のはじめに為すそのふたつの作業のうちの前者、「絵の存在否定」について見ましたね。
科学は事のはじめにその「絵の存在否定」を世界の隅々にまで為す。すると、こうなるということでした。
- A.俺が現に目の当たりにしている物の姿や、現に耳にしている音、現に嗅いでいる匂い、現に味わっている味など、俺が体験しているもの一切が、俺の心のなかにある像にすぎないことになる(体験できるのは心のなかのものだけという思想の出来)。
- B.俺の心の外に実在しているのは、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうこともできない、いわゆる「のっぺらぼう」な何かであるということになる(この世界に実在するものはすべて「のっぽらぼう」であるという思想の出来)。
でも、そうなると、心の外に実在しているその「のっぺらぼう」な何か(B)とは、いったいどのようなものか、という疑問が湧いてくることになると指摘したところで、前回は終わりました。
いまから、その後をつづけますよ。自動的にここからは、科学が事のはじめに為すふたつの作業のうちの残り、「存在の客観化」を確認することになります。
2023年2月1日に文章を一部修正しました。
*前回の短編(短編NO.49)はこちら。
*これのpart.1はこちら(今回はpart.4)。
*このシリーズ(全64短編を予定)の記事一覧はこちら。