(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

機械なんかであるはずがない身体を科学が機械と見なすに至るキッカケにみなさんはドギモを抜かれる(7/7)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.3】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.50


◆補足で音について「絵の存在否定」をしてみる

 ところでいま、電柱を例にした考察から一気に話を、音、匂い、味などこの世の一切にまで広げましたね。ちょっと駆け足すぎたかもしれませんね。ひとつひとつ詳しく見ておく必要はなかったにしても、ね?


 ひとつ、音についてだけ、先ほどの電柱のように詳しく考察しておくことにしましょうか。


 部屋の外の廊下の足音に俺がいま耳を澄ませていると想像してみてくれますか。


 その場合も、表現は奇妙になるかもしれませんけど、こう言えますね。


 俺が現に聞いているその廊下の足音と、俺の身体とは、俺のしている体験(廊下の足音を聞いているという体験)に共に参加している、って。


 では、そこで、つぎのふたつの操作からなる「絵の存在否定」をしてみてくれますか。

  • ①その足音と、俺の身体とが、現に在る場所(足音の場合は廊下、俺の身体の場合は部屋のなか)にそれぞれ位置を占めているのは認める(位置の承認)
  • ②その廊下の足音と、部屋のなかの俺の身体とを、「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士と考える(部分であることの否認)


 すると、どうなります?


 廊下で足音は立っているがその足音は聞こえていないということになりますね。その足音は聞こえるものではないということになりますね。


 しかし現に俺は廊下の不穏な足音を耳にしています。そこで科学は、辻褄を合わせるために、現に俺が耳にしているその廊下の足音を俺の心のなかにある像であることにします


 俺の脳が俺の心のなかに作り出したということにして、ね? 俺の心の外で、廊下に実在している、聞こえるものではない「のっぺらぼう」な何かであるところの足音(科学はこれを空気の振動と考えることになります)についての情報をもとに、俺の脳が作り出したんだ、って。


 さて、今回は、科学が事のはじめに為すふたつの作業のうちのひとつ、「絵の存在否定」について確認しました。その作業の結果、みなさんの体験しているものすべてが、みなさんの心のなかにある像にすぎないことになるということでしたね。そして、みなさんの心の外に実在しているのは、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも一切叶わない「のっぺらぼう」な何かであることになる、とのことでした。みなさんが目の当たりにし、耳にし、嗅ぎ、味わっているのはみな、みなさんの脳が、心外に実在している「のっぺらぼう」についての情報をもとに、みなさんの心のなかに作り出した像にすぎないんだ、って。


 だけど、そうなりますと、つぎの疑問に答えなくてはならなくなります。


 心の外に実在しているその見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも一切叶わないのっぺらぼうな何かとはいったいどのようなものなのか*1


 先に、科学は事のはじめに「絵の存在否定」「存在の客観化」というふたつの作業を立てつづけに為し、存在を改悪すると言いました。ここから話の主題は、その後者の「存在の客観化」に移り、この疑問について見ていくことになります。






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当初の日時設定のあやまりを訂正し、同内容で掲載しなおしました。


*今回の最初の記事(1/7)はこちら。


*前回の短編(短編NO.48)はこちら。


*これのpart.1はこちら(今回はpart.3)。


*このシリーズ(全64短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

*1:実はこの質問のまえにもっと根源的な疑問がほんとうは出てこなくてはなりませんね? その根源的な疑問とは何かというと、それは、ほんとうに心の外は実在するのか。あるいは、心のなかに電柱の像が認められるということから、ほんとうに心の外に電柱が実在していると考えて良いのか、です。科学はこの問いをすっ飛ばしますが、近代哲学の祖であり、近代科学の源流のひとりであるデカルトは無視せず、その問いにとり組みました。そして神の存在を証明することによってその問いを解決しようとしましたが、その詳しいところは彼の著書ででもご覧になってください。