*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.50
◆心の外に実在するものはすべて、見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも一切叶わない「のっぺらぼう」
科学はこの「絵の存在否定」という作業を、この世の隅々にまで為すということでしたよね。
したがって、こういうことになります。
現に俺が目の当たりにしている電柱の姿のみならず、現に俺が目の当たりにしている、夕日の姿も、フィールドでプレーしている選手たちの姿も、俺の心のなかにある映像にすぎないことになります。さらには、現に俺が耳にしている廊下の足音や、現に俺が嗅いでいるコーヒーの匂い、現に俺が味わっているホットドックの味、また現に俺が感じている俺の左足の感覚といった、俺が体験しているもの一切も、俺の心のなかにある像にすぎないことになります。
こうして、俺がうっとりと見とれている、はるか地平線上にある夕日の姿も、俺の目が驚嘆の思いで釘付けになっている、グラウンド上の選手たちの姿も、俺の心のなかにある映像にすぎなくなります。
部屋のなかにいる俺が耳を澄ませて震えながら聞いている廊下の不穏な足音も、俺が現に嗅いでいる、台所のあたりからするコーヒーの匂いも、俺が現に味わっている、口のなかいっぱいに広がるホットドックの味も、俺が現に感じている、鉄の棒のように重くなった、ベッド上の俺の左足の感覚も、すべて俺の心のなかの像にすぎなくなります。
つまり、体験できるのは心のなかにあるものだけということになります(これがデカルトの出発点 近代哲学と近代科学の出発点 「コギト・エルゴ・スム」です)。
そして、俺の心の外に実在しているのは、見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも一切叶わない、いわゆる「のっぺらぼう」な何かだということになります。
で、俺の心のなかにある像にすぎないことになった、俺が体験しているもの一切は、すなわち、現に俺が目の当たりにしている物の姿、現に耳にしている音、現に嗅いでいる匂い、現に味わっている味といったものはすべて、俺の脳が作り出したものであることになります。俺の心の外に唯一実在している、「のっぺらぼう」な何かについての情報をもとに、俺の脳が、俺の心のなかに作り出したものであるということに。
当初の日時設定のあやまりを訂正し、同内容で再掲しなおしました。
*今回の最初の記事(1/7)はこちら。
*前回の短編(短編NO.48)はこちら。
*これのpart.1はこちら(今回はpart.3)。
*このシリーズ(全64短編を予定)の記事一覧はこちら。