(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学は、外界に実在しているのは、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも一切叶わない「のっぺらぼう」であると言うが、それは果してどんなものか(1/6) 【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.5】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.51

目次
・科学は関係をも別ものにすり替える
・外界に実在しているのは元素だけという科学の基本アイデア
・関係は自律的なものである
・原子に色はついているか


 機械ではない身体を、なぜ医学が機械と見なすのか、それをいま確認しようとしているところです。


 でも、そんなことを確認しようとするのはツマラナイことだと思われるかもしれませんね。けど、機械ではない身体を機械と見なすそのボタンの掛け違いが、医学に深刻な帰結をもたらしてきたことは先に確認したとおりです。少なくないひとたちが、そのおかげで医療から理不尽な損をこうむってきたということでしたね。

 

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理不尽な損害1(訴えと要望をまともに聞いてもらえない)

理不尽な損害2(たいしたことのある副作用もたいしたことがないとあしらわれる)

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 さて、科学は事のはじめに「絵の存在否定」「存在の客観化」と俺がそれぞれ呼ぶ、ふたつの作業を立てつづけに為し、存在を改悪します。機械ではない身体を科学がなぜ機械と見なすのかを理解するために、ここまでそのふたつの作業の詳細を見てきました。


 駆け足でふり返ると、こういうことでした。


 まず科学は、「絵の存在否定」を為すことによって、俺が体験しているもの一切を、俺の心のなかにある像にすぎないことにする。


 で、俺の心の外にほんとうに実在しているのは、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも絶対に叶わない何か、そう、「のっぺらぼう」な何かである、ということにする。


 ついで、立てつづけに、「存在の客観化」を為し、電柱の場合なら、それを一瞬一瞬答えるものから答えることのないものにすり替える。「他のものたちと共に在るにあたってどのようにあるかという問いに。


 
つまり電柱を「ただただ無応答でそこに在るもの(客観的なもの)」であることにする。


 では、その「ただただ無応答でそこに在るもの」とは何かというと、それは、「どの位置を占めているかということしか問題にならない何かである、ということでしたね。


 前置きが長くなりましたけど、この後をつづけます。機械ではない身体が科学によって機械と見なされる理由を理解できるようになるところまで(次回短編)、急いで行き着かなければなりません。






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*前回の短編(短編NO.50)はこちら。


*これのpart.1はこちら(今回はpart.5)。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。