(新)Nothing happens to me.

科学には、人間を理解することを妨げる理論的欠陥がある

科学は存在を別ものにすり替える

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第11回


 いまこういうことを確認しました。


 眼球から脳に至る神経経路に起こる電気的興奮の連鎖は、俺の眼前数十メートルの場所に実在する「ほんとうの松の木」についての情報を眼球から脳に伝達しているのではありませんでした。眼球から脳に至るその神経経路は、俺の目のまえにある松の木などと、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合います。「共にどのように在るか」というひとつの問いに、前者の神経経路が、電気的興奮の伝導を呈することをもって答えるいっぽう、後者の松の木が、現に俺が目の当たりにする姿を呈することをもって答えるということでした。


「身体の物的部分」各所の受容体から神経をへて脳に至る神経経路に起こる電気的興奮の連鎖もまた、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報を脳へ伝達しているのではありませんでした。「身体の物的部分」各所の受容体から脳に至るその神経経路も、「身体の感覚部分」などと、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合います。「共にどのように在るか」というひとつの問いに、前者の神経経路が、電気的興奮の伝導を呈することをもって答えるいっぽう、「身体の感覚部分」が、あるしかじかの感じを呈することをもって答えるということでした。


 しかし科学には神経経路に起こる電気的興奮の伝導をこのように見ることは絶対にできません。


 なぜそんなに強い調子で断定できるのか。


 俺が松の木の姿を目の当たりにしている例を用いてここまで考えてきました。見てきましたように、科学は事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為し、現に俺が目の当たりにしている松の木の姿を、俺の前方数十メートルのところにあるものではなく、俺の心のなかの映像であることにし、代わりに俺の前方数十メートルのその場所には、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」が実在しているとします。


 そのように実際の松の木と、科学が松の木と考えるものとは異なります。


 実際の松の木は、俺が現に目の当たりにしている松の木の姿であって、それは俺の前方数十メートルのところにあります。いっぽう科学が俺の前方数十メートルの場所に実在している松の木とするものは、見ることも触れることもできない何か(分子の組み合わさったもの)です。


 前者、俺が現に目の当たりにしている松の木のほうは、俺が近寄っていくにつれ、刻一刻とその姿を大きくし、木目をくっきりさせていきます(chapter1でこのことを確認しました)。すなわち、俺が目の当たりにする松の木のほうは、「他と共にどのように在るか」という問いに一瞬ごとに答えるものです。が、後者の、科学が俺の前方数十メートルの場所に実在していると考える、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」のほうは、「他と共にどのように在るか」という問いに答えることのないものです。すなわち、俺が近寄っていこうが遠ざかろうが、はたまた片目をつむろうが、サングラスをかけて見ようが、逆立ちしようが、晴れていようが、曇っていようが、そんなことではなんら変化しないもの、別の言いかたをすれば、客観的なものです。


 科学は、この松の木のように、存在(音、匂い、味、を含む)という存在をすべて、「他と共にどのように在るか」という問いに答えることのないもの(いわゆる客観的なもの)にすり替えます。


 いま申しましたとおり、俺が松の木に近寄っているあいだ(だけには限られませんが)、俺が目の当たりにする松の木の姿は「他と共にどのように在るか」という問いに一瞬ごとに答えますが、このときたとえば俺の身体も「他と共にどのように在るか」という問いに一瞬ごとに答えます。要するにその間、松の木の姿や、俺の身体(とうぜん神経経路を含む)などは、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合います。ところが科学は、俺がそうして歩み寄っているあいだ、「ほんとうの松の木」が「他と共にどのように在るか」という問いに答えることもなければ、俺の身体(とうぜん神経経路を含む)が「他と共にどのように在るか」という問いに答えることもないとします。つまりその間、「ほんとうの松の木」や、俺の身体(とうぜん神経経路を含む)が、「共にどのように在るか」というひとつの問いに答え合うことはないとします。


 したがって、眼球から脳に至る神経経路「身体の物的部分」各所の受容体から脳に至る神経経路に電気的興奮の伝導が起こるのは、それら神経経路が、俺の目のまえにある松の木や「身体の感覚部分」などと、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合っているということであると科学が認めるはずはないと強く断言できるというわけです。

つづく


前回(第10回)の記事はこちら。


このシリーズ(全12回)の記事一覧はこちら。

 

神経経路は情報伝達などしない。では何を?

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第10回


 俺が松の木の姿を目の当たりにしているとき、俺の前方数十メートルの場所に実在している、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」から、「ほんとうの松の木」についての情報が、神経、脳をへて、俺の心にまで伝達されていると科学は考え、 眼球、神経、脳へと至るその神経経路を伝導する電気的興奮(これは事実)を、「ほんとうの松の木」についての情報を伝達しているものと説きますが、そうした電気的興奮の伝導は、電気的興奮の伝導以外の何ものでもなく、「ほんとうの松の木」についての情報を伝達してはいないと申しました。


 では、眼球からはじまり脳に至るその神経経路は、情報を伝達していないのなら、電気的興奮を伝導することでいったい何をしているのでしょうか。


 眼球からはじまり脳に至る神経経路は、そのように電気的興奮を伝導することで、前方数十メートルの場所にある松の木と、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合っていると言えます (このとき「共にどのように在るか」というこの問いに一瞬ごとに答え合っているのは、chapter1で見ましたように、これらふたつには限られませんが、ここでは事を簡単に見るためこのふたつに話をしぼります)。


 俺が木目までくっきりとした、ある大きさの松の木の姿を目の当たりにしているとしますと、そのとき、「共にどのように在るか」というひとつの問いに、眼球から脳に至るその神経経路は電気的興奮の伝導をもって答えているいっぽう、俺の目の前数十メートルの場所にある松の木のほうは、木目までくっきりとした姿をとることをもって答えているというわけです。


「身体の物的部分」各所の受容体からはじまり、神経をへて、脳に至る神経経路を伝導する電気的興奮についてもこれと同じことが言えます。


 科学は、「ほんとうの身体の物的部分」各所の受容体から、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報が、神経、脳をへて、俺の心のなかへ伝達されるとし、「身体の物的部分」各所からはじまって脳へ至るこの神経経路を伝導する電気的興奮(これは事実)を、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報の伝達とします。が、そうした電気的興奮の伝導は、電気的興奮の伝導以外の何ものでもなく、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報を伝達などしてはいないと先に申しました。


 では、「身体の物的部分」各所からはじまり脳に至るその神経経路は、情報伝達をしているのでなければ、電気的興奮を伝導することでいったい何をしているのでしょうか。


「身体の物的部分」各所からはじまり脳に至る神経経路は
、そのように電気的興奮を伝導することで、「身体の感覚部分」と、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合っていると言えます (先ほども書きましたように、「共にどのように在るか」というこの問いに一瞬ごとに答え合っているのはこれらふたつには限られませんが、ここでも事を簡単に見るためこのふたつに話をしぼります)。


 くり返し確認しておりますように、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とは、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合う、身体のうちの二部分です。「身体の物的部分」各所の受容体からはじまり脳に至るその神経経路と、「身体の感覚部分」とは、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合います。


 たとえば俺が足のしびれを感じているとき、「共にどのように在るか」というひとつの問いに、「身体の物的部分」各所からはじまり脳に至るその神経経路はある電気的興奮の伝導をもって答えているいっぽう、「身体の感覚部分」のほうは、足のしびれを呈することをもって答えているというわけです。

つづく


前回(第9回)の記事はこちら。


このシリーズ(全12回)の記事一覧はこちら。

 

身体情報伝達論

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第9回


 科学が事のはじめに絵の存在否定という不適切な操作を為し、俺が目の当たりにしている松の木の姿を、俺の前方数十メートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」についての情報であるとすること、 さらには俺の心のなかにあるその情報を、俺の心の外に実在する「ほんとうの松の木」から発し、眼球、神経、脳をへて俺の心のなかにやってくるとすること(情報伝達論)を確認しました。


「身体の感覚部分」についても、科学はこれと同様の情報伝達を想定します。


 科学は先に確認しましたとおり、事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為し、身体の感覚部分俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分」(俺の心の外に実在するとされる)についての情報であるとします。 しかしそう解しますと、とたんに、俺の心のなかにあるその情報の内容を信じることができるのかどうかが問題となります。その情報はどこからやってきたのか。俺の心のなかで勝手に湧きあがっただけなら、そんな情報に信憑性を認めることはできるだろうか、というわけです。


 そこで科学は、俺の心のなかにある、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報をガセとしないために、俺の心のなかにあるその情報は、俺の心の外に実在する「ほんとうの身体の物的部分」の各所というたしかな先から発し、神経、脳をへて、俺の心のなかへ来たのだと考えます。 そうして、実際に観察される、「身体の物的部分」各所の受容体から神経をへて脳に至る電気的興奮の伝導を、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報を伝達するものだと決めつけます。


 が、ここまで見てきましたふたつの電気的興奮の伝導、すなわち、眼球から神経をへて脳に至る電気的興奮の伝導や、身体の物的部分各所の受容体から神経をへて脳に至る電気的興奮の伝導は、実際のところ、「ほんとうの松の木」についての情報や「ほんとうの身体の物的部分」についての情報などは伝達しておらず、まさに電気的興奮の連鎖以外の何ものでもないと思われます。


 そもそも、俺がいまこの瞬間に目の当たりにしている松の木の姿は、俺の前方数十メートルの場所にあるものであって、松の木そのものにほかなりません。俺の心のなかにある情報ではありません。 したがって、俺の心の外に「ほんとうの松の木」が実在すると考える必要がなく、ひいては、俺の心の外に実在する「ほんとうの松の木」から俺の心のなかへと情報が伝達される経路を想定する余地がまったくありません。


 同じことが「身体の物的部分」についても言えます。俺がいま目の前に自分自身の左手をかざしているとして、その場合に俺が目の当たりにしている俺の左手の物的部分の姿は、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものであって、俺の左手の物的部分そのものです。俺の心のなかにある情報なんかでは決してありません。したがって、俺の心の外に、「ほんとうの左手の物的部分」が実在すると考える必要もなく、ひいては、俺の心のそとに実在する「ほんとうの身体の物的」から、俺の心のなかへと情報が伝達される経路を想定する余地もまったくありません。


 またそのときの俺の左手の感覚部分、俺の眼前数十センチメートルの場所にある、左手の感覚部分そのものであって、俺の心のなかにある像ではありません。決して、俺の心のなかにある、俺の心の外の何かについての情報ではありません。したがって、「身体の感覚部分」についても、俺の心の外に実在する何かから、俺の心のなかへと情報が伝達されてくる経路を想定する余地はまったくないわけです。

つづく


次回は2月15日(水)朝7:00にお目にかかります。


前回(第8回)の記事はこちら。 


それ以前の記事はこちら。

第1回


第2回


第3回


第4回


第5回


第6回


第7回


このシリーズ(全12回)の記事一覧はこちら。

 

視覚情報伝達論

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第8回


 科学が「絵の存在否定」という不適切な操作の結果、俺が目の当たりにしている松の木の姿を俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」についての情報とし(外界知覚論)、 かたや「身体の感覚部分」を俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分」についての情報とする(身体知覚論)顛末をここまで確認してきました。


 このように俺が目の当たりにしている松の木の姿「身体の感覚部分」を、俺の心のなかにある情報と解しますと、そうした情報の内容を信じることができるのかどうかが、とたんに問題となってきます。


 俺の心の外に実在している、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」についての情報を、俺の心はどうやって入手するのか。その情報が俺の心のなかで勝手に湧きあがってくるだけだとしたら? もしそうなら、そんな情報の内容を信頼することは可能だろうか。デマである可能が高いと考えないわけにはいかないのではないか。

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

 


 そこで科学は、俺の心のなかにある、「ほんとうの松の木」についての情報や、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報を信頼するに足るものとするために、それら情報をたしかな入手先から俺の心のなかにやってくると考えることにしました。

情念論 (岩波文庫)

情念論 (岩波文庫)

 


 俺の心のなかにある「ほんとうの松の木」についての情報なら、俺の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」からやってくることにしました。 とはいえ、俺の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」から、その「ほんとうの松の木」についての情報が俺の心へとやってくるのが調査の結果、確かめられた、というのではありません。 科学が言うところにしたがえば、俺の心の外は、そこに実在する「ほんとうの松の木」をはじめ何ひとつとして、見ることも触れることもできません。「ほんとうの松の木」についての情報が、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」から、見ることも触れることもできない他のものたちのわきをすりぬけて俺の心のなかまでやってくるのを、どうして科学に確かめることができたでしょう。


 俺の心のなかにある、「ほんとうの松の木」についての情報を科学はこのように思い込みだけで、俺の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」からやってくることにしました。そして、つぎのような視覚論(既出)をぶちました。 「ほんとうの松の木」についての情報は「ほんとうの松の木」から光に運ばれて、俺の「ほんとうの身体の物的部分」まで来、眼球で電気的興奮のかたちに変換される。で、以後そのかたちで神経をつうじて脳まで伝達され、そこで映像に変換されて、俺の心に手渡されるのだ、と。


 俺の前方数十メートルのところにある松の木に反射した光が眼球に当たり、そこから、神経、脳へと連鎖的に電気的興奮が伝導するという事実を、科学はこうして、俺の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」(分子の組み合わさったもの)についての情報の伝達と見ることにしたわけです(架空の情報伝達を想定することにしたと言えます。もちろん科学は架空とは考えませんが)。

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

 


 神経をへて脳に至る電気的興奮の伝導をこのように情報の伝達とする見解を以後、情報伝達論と呼ぶことにいたします。

つづく


次回は2月12日(日)朝10:00にお目にかかります(前回は配信に失敗して、予定時刻にみなさんにお目にかかれず、くずおれました)。


前回(第7回)の記事はこちら。


このシリーズ(全12回)の記事一覧はこちら。

 

科学は身体感覚を、心のなかにある、身体についての情報とする

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第7回


 科学が事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為して、俺が目の当たりにしている松の木の姿を、俺の前方数十メートルの場所にあるものではなく、俺の心のなかにある映像であることし、俺の前方数十メートルの場所に実在している、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木についての情報であることにするのを先に確認しました。


 科学はその要領で、現に俺が目の当たりにしている俺自身の「身体の物的部分の姿をも俺の心のなかにある映像であることにし、俺の心の外に実在する、見ることも触れることもできない俺の「ほんとうの身体の物的部分」(分子の組み合わさったもの)についての情報であることにします。たとえば俺がいまこの瞬間、自分自身の左手を目の前にかざしているとすれば、俺が目の当たりにしている左手の物的部分の姿を、科学は、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある映像であることにし、俺の眼前数十センチメートルの場所に実在している、見ることも触れることもできない「ほんとうの左手の物的部分についての情報であることにします。


 で、さらには、俺がその瞬間に感じている左手の感覚(部分)」をも馬から落馬のような重複表現になってしまっていますが)、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある像であることにし、俺の眼前数十センチメートルの場所に実在している見ることも触れることもできない「ほんとうの左手の物的部分についての情報であることにします。


 そして、つぎのような情報変換論を語ります。すなわち、俺の眼前数十センチメートルのところに実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの左手の物的部分についての視覚情報と身体情報(という呼び名をここでは使っておきます)とが電気信号のかたちで神経を通じ、俺の脳までやってくる。俺の脳は、そうしてやってきた視覚情報と身体情報とをそれぞれ、電気信号のかたちから、映像感覚とに変換して、俺の心に手渡してやるが、前者の映像こそ、俺が現にその瞬間、目の当たりにしている左手の物的部分の姿であり、かたや後者の感覚こそ、俺が現にその瞬間、感じている左手の感覚(部分)」なのだ、と。


 科学はこのようにして、「身体の感覚部分、俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分についての情報であることにするわけです。


 以後、「身体の感覚部分」を、俺の心のなかにある、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報とするこうした見解を、身体知覚論と呼んでいきます。


「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とがほぼ同じ場所を占めてひとつになっているものこそ身体だと最初に申しました。「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」はこのように、身体のうちの二部分です(同じ場所を占めるもの同士を別部分と表現するのはおかしいですが、ご容赦ください)。ところが科学は、見てきましたように、事のはじめに「絵の存在否定」という事実に反した不適切な操作を為し、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とを共に、俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分」(俺の心の外に実在するとされる)についての情報とします。そうしますと自動的に、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分」(分子の組み合わさったものこそが身体であることになります。身体のうちに、「身体の感覚部分は含まれなくなります

つづく


次回は2月8日(水)朝7:00にお目にかかります。


前回(第6回)の記事はこちら。


このシリーズ(全12回)の記事一覧はこちら。

 

俺が体験する一切を科学は俺の心のなかにある外界情報とする

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第6回


 さて、科学が事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為し、その結果、いまこの瞬間に俺が目の当たりにしている松の木の姿を、俺の前方数十メートルの場所にあるものではなく、俺の心のなかにある、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」について情報とするに至る経緯を見ました。


 こういうことでした。


 科学は、俺がいまこの瞬間に目の当たりにしている松の木の姿と、その瞬間の俺の「身体の感覚部分とを、それぞれがその瞬間に在る場所に在るのは認めるものの、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士であるとは認めず、事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であることにすり替えます(「絵の存在否定」)。すると、俺にはその瞬間、現に松の木が見えているにもかかわらず、松の木が見えていないことになります。そこで科学は、俺にはその瞬間、松の木が見えていないということにするために、俺がその瞬間、現に目の当たりにしている松の木の姿を、俺の前方数十メートルのところにあるものでなく、俺の心のなかにある映像にすぎないことにします。そして、俺の前方数十メートルの場所にはその代わりに、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」が実在するということにして、俺がその瞬間、現に目の当たりにしている松の木の姿を、俺の心のなかにある、「ほんとうの松の木」についての情報であることにするというわけでした。


 科学はこのように、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士をことごとく、事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であることにすり替え、現に俺が目の当たりにしている松の木の姿のみならず、現に俺が聞いている廊下の足音、現に嗅いでいる台所のレモンの匂い、現に味わっている口のなかいっぱいに広がるコーヒーの味など、俺が体験しているありとあらゆるものをすべて、俺の心のなかにある像とします。


 で、俺の心のなかにあるそれら像のうち、俺が空想している像(たとえば俺がいまひそかに想像している頭が三つあるゴジラの姿など)以外はすべて、俺の心の外に実在する、見ることも触れることも聞くことも嗅ぐことも味わうこともできない「ほんとうの存在」についての情報であるとします。 俺が現に目の当たりにしている松の木の姿なら、先に確認しましたように、俺の前方数十メートルの場所に実在している、見ることも触れることもできないほんとうの松の木についての情報であることにし、 俺が現に聞いている廊下の足音なら、耳に入ってきた空気の振動についての情報に、俺が嗅いでいるレモンの匂いなら、鼻に入ってきた匂い分子についての情報、俺が現に味わっているコーヒーの味なら、舌に触れた味物質についての情報であることにそれぞれします(科学のこうした見方を外界知覚論と呼ぶことにします)。

つづく


前回(第5回)の記事はこちら。


それ以前の記事はこちら。

第1回


第2回


第3回


第4回


このシリーズ(全12回)の記事一覧はこちら。

 

見えている姿を科学は心のなかにある映像とする(後編)

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第5回


 で、科学はつぎのような視覚論を語ります。


 俺の前方数十メートルの場所に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」に当たった光が、その「ほんとうの松の木についての情報を俺の眼球まで運んでくる。するとそこでこの情報は電気信号のかたちに変換され、以後そのかたちで視神経をつうじて脳まで伝達される。脳はこうしてやってきた「ほんとうの松の木」についての情報を最後に電気信号のかたちから映像に変換し、俺の心へ手渡すのだ、と。


 俺は俺の心のなかに脳によって作られたこの映像(その瞬間、俺が目の当たりにしている松の木の姿)に触れることで、俺の前方数十メートルの場所に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」に間接的にのみ関われる、とするわけです。


 いちはやく「絵の存在否定」という不適切な操作を大っぴらにやってのけ、科学の基礎をことごとくかたち作っていった哲学者兼科学者のデカルトも、俺が目の当たりにする松の木の姿を、俺の心のなかに作りあげられた、見ることも触れることもできないほんとうの松の木」(俺の心の外に実在するとされる)についての情報とする視覚論を語っています*1。俺の前方数十メートルの場所に実在すると科学が考える、見ることも触れることもできないほんとうの松の木」を対象と、かたや俺の心のなかにあると科学が考える、「ほんとうの松の木についての情報を感覚と、それぞれ呼ぶ言葉の用いかたで彼はこう言っています。以下、精神というのは心のことです。

「わたしたちの外部にあるもの、つまり感覚の対象に関係づけられる知覚は、これらの対象によって引き起こされる(少なくともわたしたちの考えが偽でなければ)。これらの対象が、外的感覚の器官のなかに何らかの運動を起こして、神経を介して脳のなかにも運動を起こす。これらの運動によって、精神が対象を感覚するのである。たとえば、松明の光を見、鐘の音を聞くとき、この音とこの光は、二つの異なる作用〔能動〕である。それらは神経のある部分に、そして神経を介して脳のなかに、二つの異なる運動を起こし、ただこのことによって、精神に二つの異なる感覚を与える。この二つの感覚を、わたしたちは原因と想定される主体に関係づけ、松明そのものを身、鐘を聞いていると考える」(デカルト『情念論』谷川多佳子訳、岩波文庫、2008年、pp.23-24、1694年)

情念論 (岩波文庫)

情念論 (岩波文庫)


 このようにデカルトも、彼が目の当たりにする松明の姿を、彼の前方にあるものではなく、彼の心のなかにある映像であることにし、彼の前方に実在する見ることも触れることもできない「ほんとうの松明の光についての情報であることにするいっぽうで、彼が耳にする鐘の音については、彼のはるか上方の塔のうえで鳴っているのではなく、彼の心のなかにある像であることにし、見ることも触れることも聞くこともできない、彼の周囲に実在する空気の振動についての情報であることにしています。

つづく


次回は2月1日(水)朝7:00にお目にかかります。


前回(第4回)の記事はこちら。


このシリーズ(全12回)の記事一覧はこちら。

 

*1:彼の思想の出発点である方法的懐疑は、事のはじめに「絵の存在否定」を為した結果と言えるのではないかということを、「デカルトの超絶てじなぁ~ニャで科学は基礎を形づくる」でかつて書きました。