(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

あんパンをもちいて「科学」を定義する

*「科学」を定義する第1回


 最近、「○○の科学」というタイトルの本をかなり目にしますよね。


 でも正直、みなさん、疑問を覚えません?


 それはいったいどういった意味合いで、「科学」という言葉を使っているのだろうか、って。その「科学」という言葉に、しっかりした意味はあるのだろうか、って。


「科学」という言葉で、何か特別なもののことを指しているはずですよね? ごくごくありふれたものにわざわざ、「科学」という意味ありげな名前はつけませんね?


 だけど、どういった特別なもののことを指して、「科学と言っているのかイマイチ伝わってこないような気がしません? 数字やデータを扱うことそれ自体は、何も「科学」と呼ぶほど、特別なことではありませんしね(お金の勘定を「科学」と呼びます?)*1


 ひょっとすると、そうした本の幾ばくかは、「科学」という言葉をただ何となく、流行にのっかって使っているだけかもしれませんね。


「科学的であることが求められる」とか「××は非科学的であるとのソシリを免れない」などと言っていても、しょせん、科学と非科学の区別を勘を頼りにつけているにすぎないのかもしれませんね。


 みなさんなら科学をどう定義づけます


 えっ、俺?


 う〜ん、そうですね、俺はこう定義づけてみてはどうかと思います。いまみなさんが、眼前のテーブル上にある、あんパンを見ているとしますね。みなさんが見ているそのあんパンの姿は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにありますよね。にもかかわらず、そのあんパンの姿をみなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学なのである、って。


 そう定義づけると、「科学」がいかに特別なものかハッキリしてきません?


         (了) (→次回はこちら

 

 

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*1:2019年11月8日に文章を一部修正しました。