*認知症の人間の言動は理解不可能か・第16回
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歳をとったり病気になったりすると往々にして気力が落ちると言われる。若かったり健康だったりした頃は、少々煩わしいことや骨の折れることであっても気力をふるってやりこなせていたが、今はもう気力が湧いてこず、そうしたことはできないと早々に諦める、ということにしばしばなる。
この気力が落ちるとは何か。
それは、意欲や興味が減退していて、煩わしさに気負けするということではないか。
元気があったときは感情の吐露を抑制していた。人目も気にしたし、自分自身の目にも格好良く映りたいという思いがあって、少々労力がいるが、感情を抑えて振る舞っていた。ところが脳卒中に見舞われ、身体と言葉が自由にならなくなるという現実に直面して以来、そういう見え方に対する意欲や興味が衰退してしまって、感情の吐露への抑制が緩くなってしまった、ということである可能性もあるかもしれない、というわけである。
以上、アルツハイマー病に続き、血管性認知症についても、その症状とされる言動がほんとうに、俺たちが最初に示した理論どおり「理解可能」か一つひとつ検証してきた。正直なところ、ここで試みた考察でそれら言動を幾分かでも「理解できた」のか確証する手立ては全くないが、それでもそれらを以前同様「理解不可能」と断じ続けていくためにはそれらが「理解不可能」であることを逆に証明する必要がもはやある、と思えるくらいのところまでは来たのではないか、という個人的な実感があるが、果してどうか。
(→次回)
2025年12月22日に文章を一部修正しました。
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