*認知症の人間の言動は理解不可能か・第14回
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子供の母国語スピーキング能力習得や成人の外国語スピーキング能力習得時の初期段階で起こっているのは何か。
それは、言ってみれば、コレコレこうしたことを表現したいときにはコレコレこうした声音(言葉)を使っていくという意思を一つひとつ確立していくこと、ではないか。
たとえば、誰かに背後から自転車がやってきたことを教えてあげるときには「後ろから自転車が来たよ」という声音(言葉)を使っていくとか、目の前にタマゴがあることを指摘する際には「ここにタマゴがあるよ」という声音(言葉)を使っていくといった意思を確立していくことである。
勿論そうした意思の確立は一朝一夕にできるものではなく、当初は「後ろ…からじ……じ自転車……ががきき来た……よ」といったふうになめらかには言えなかったり((a)たどたどしくなる)、「後ろからジテンチャらキラ」といったふうに音が歪んでしまったり((a))、「ここにタガモあるよ」と言い間違えたり((c)音韻性錯語)、文章を最後まで言い切れなかったり((d)短い言葉なら言える)する。
こういった意思の確立は何も幼児期に限ったとでなく、一生を通じてのことではあるだろうけれども、ともあれそうした、コレコレこうしたことを表現するときにはコレコレこうした声音(言葉)を使っていくという意思が運動性失語なるものでは衰弱または喪失している、ということではないだろうか。
しかし仮にそうだとして、衰弱・喪失している意思は、話すことに関するこうした意思だけか。聞くことに関する意思にもいくらかの衰弱・喪失が見られるということはないか。
実際、運動性失語の説明のところに「単語を書けない」という特徴があげられていた(項目f)。手の麻痺によって字が書けないというようなことでなければ、それもまた、コレコレこうした音声(言葉)をコレコレこういったふうに書いていくという意思の衰弱・喪失であって、運動性失語で衰弱・喪失している意思が、最初に述べたスピーキングに関するもののみではない可能性を示唆している、ととることもできるような気がするが、果してどうだろう。
2025年10月7日に文章を一部修正しました。
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