(新)Nothing happens to me.

科学には、人間を理解することを妨げる理論的欠陥がある

アルツハイマー型認知症⑨:着替えができなくなったり、同居家族の顔がわからなくなったりする(失行と失認の)理由(3/4)

認知症の人間の言動は理解不可能か・第13回

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 さていま、このBの②「失行」は、長年「馴染み」のものだった或る意思の衰弱喪失現象ではないかと推測したけれども、そうした意思の衰弱・喪失を、誰しもかつて経験したことがあるか、もしくはよく耳にしたことがある「あがる」という現象を用いて、これから少し考察してみたい。


「あがる」と聞いてみなさんはどんな場面を思い浮かべるだろう。


 よく語られるように思われるのは、初日の舞台に立った俳優が緊張のあまり「あがって」しまい、いざという場面で頭が真っ白になって、完璧に覚えていたはずのセリフが全く出てこなくなったとか、完璧に身に染みこませていたはずの動きが全く身に現れ出てこなくて立ち往生してしまった、といったものではないだろうか。同様に面接やスピーチで「あがって」しまい、自分の名前すら口から出てこなかったといった話もみなさんは聞いたことがあるかもしれない。


 この「あがって」しまって頭が真っ白になる、とは何か。


 それは、コレコレこういった場面でコレコレこういう言葉を口に出していくという意思、またはコレコレこういった場面でコレコレこういう動作をとっていくという意思や、自分の名前をコレコレと名乗っていくという意思、あるいは何度も今日の日を想定しながら口に出す練習をしてきたスピーチの文章を実際に声音にしていく意思、そうしたくつろいでいるときには自然にわが身に湧き出てきていた「馴染みの意思が全く身に湧き出てこなくなったという現象ではないだろうか。


 そうした「あがる」についての考察は記憶喪失や失語のほうにも俺たちを差し向ける。


 記憶喪失や失語にも、いま言ったのと同じことが当てはまりはしないだろうか。


 記憶喪失では、自分が誰を家族に持ち、どんな名前で、どこに住み、どこで働いているかわからなくなったりすると言われる。


 それは、コレコレこういった者として生きていくという「馴染み」の意思がわが身に湧き出てこなくなった状態のことではないか。


 失語も、コレコレこういった時にはコレコレこういう音を出していくという「馴染み」の意思がわが身に湧き出てこなくなった現象ではないだろうか。


 ともあれ、話を「あがる」、記憶喪失、失語から本題に戻そう。


 いま、アルツハイマー認知症のB(中等度)の②「失行」を見ている。それは「ボールペンなどこれまで当たりまえに使えていた道具が使えなくなる」とか「着替えができなくなる(着衣失行)」といった、今まで当然のようにできていた「馴染み」のことができなくなった状態のことであるが、ちょうどいま言ったように、意欲や興味の減退が進行していった結果、長年「馴染み」のものだったはずの、ボールペンを使って字を書いていく意思や服を着替えていく意思が弱ってきて、ついには全く身に湧いて出てこなくなったそんな現象なのではないか、ということだった。





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