*認知症の人間の言動は理解不可能か・第4回
(2/3に戻る←)
先に、「異常な人間」などこの世に存在し得ないことを確認した*1。ひとを異常と判定するというのは繰り返し言うように、そのひとのありようを、こちらの頭になかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見、その合致していないことをもってそのひとを問題有りと考えることであるが、まさにそのひとが、こちらの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見えた時にこちらがほんとうにしなければならないのは、そのイメージのほうを、そのひとのありようとも合致するものとなるよう、すなわちそのひとのありようをも正常と見られるようになるよう修正する、豊かにすることだった。したがって、この世に「異常な人間」は存在し得ないということだったが、いま言ったことを、「理解できる」「理解できない」について先ほど得た知を用いて言い換えれば、こういうことになる。
ひとを異常と判定するというのは、そのひとのことを「理解できない」と見、その「理解できない」ことをもってそのひとを問題有りと考えることであるが、まさにそのひとが「理解できない」と見えた時にこちらがほんとうにしなければならないのは、そのひとのことを「理解できる」ようになるよう、すなわちそのひとのことをも正常と見られるようになるよう、こちらの理解力を修正する、豊かにすることである。したがって、「理解され得ない人間」はこの世に存在し得ない、と。
「理解され得ない人間」がこの世に存在すると認めるのは実のところ学問の敗北宣言に他ならない。
だが医学はひとを、認知能力の低下具合から認知症や軽度認知障害などと診断し、「異常」と見なすことによって、「理解され得ない人間」の烙印を押してきた。そうして人間理解を放棄もしくは妨害してきたわけである。
*このシリーズの記事一覧
*1: