*認知症の人間の言動は理解不可能か・第4回
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特定の誰かをいま「異常」と判定するとして、それはその誰かの実際のありようと、こちらがひとというものに対してもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージとを比較することだった。要するにその誰かのありようを、こちらの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと見、その合致していないことをもってそのひとを問題有りと考えるということだった。
ではここでひとつ、こんな例を想像してみてほしい。
上司であるみなさんは部下の、ちょっとした仕事上での失敗に気付いた。それは些末なものだったが、みなさんは一応本人に知らせておかなければならないと考えた。糾弾などめっそうもなかった。むしろみなさんは部下が傷つかないよう気を遣い、変にかばい立てはしなかったけれども、暗に励ますような雰囲気を醸しながらその失敗を指摘した。すると思いも掛けないことにその部下が、さもみなさんに無神経な仕方で心をえぐられたとばかりに、恨みがましく泣き出したのである。
その日の終わり、みなさんはそのことを思い出しながらビール片手に、配偶者相手に愚痴をこぼす。
「そんなことで普通泣く? いやあ、理解できないわ」
さてこれからするのは、いま想像のなかでみなさんがその部下の言動に「理解不可能」の烙印を押したちょうどそのときみなさんの頭のなかで何が起こっていたかの確認である。
みなさんの前でその部下は、恨みがましい調子で泣き出した。部下のそのありようは、みなさんがひとというものに対してもっている「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致しなかった。みなさんの頭のなかにあるひとはそんなことで泣きはしない。そこでみなさんは、部下のありようがイメージに合致しないそのことを、部下のことを「理解できない」といったふうに表現した、ということではないだろうか。
いっぽう今度は反対にみなさん自身が過去、その部下がしたのとおなじような経験をしたことがあったものと仮定してみる。その場合みなさんは先ほどとはうって変わって一日の終わり、配偶者に向かってこう語っていたかもしれない。
「たしかに、あいつ(部下)が泣くのも理解できる」
部下がみなさんの前で涙を流したそのありようが、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージにぴったり合致した。で、部下のありようがイメージに合致しているそのことを、部下のことを「理解できる」とみなさんは表現した。
要するに、誰かのことを「理解できる」とか「理解できない」というのは、そのひとのありようが、こちらの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致しているか、していないかのことであるということだが、だとすれば、この世には「理解され得ない人間」など存在しないということになる。
どういうことか。