*認知症の人間の言動は理解不可能か・第1回
(1/3に戻る←)
この記事に述べられていたのは、ひとつの「事実」とひとつの「推測」だった。
その「事実」というのは、「EDと診断された40歳以上の男性26万人超のうち」その「診断後にアルツハイマー病を発症した約1100人を調査」したところ、「ED治療薬の服用者は非服用者より発症率が18%低」かったということである。
いっぽう「推測」というのは、その「事実」をもとに為された、ED治療薬がアルツハイマー病に効いた(効く)とする推断である。
しかし、この記事のなかに与えられた情報からだけでは、その「推測」が正しいかどうかは全く判断がつかない。ところが一点論者は、先の「事実」からそうした速断をすることを論理的に正しいと思い違いし、先走ってしまう。
いま一点論者という奇妙な言葉を使ったけれども、それは「出来事を何か一点のせいにする」者のことである。
先の「推測」はまさに、あるひとたちが認知症なるものにならなかったことを、身体内に入り込んだED治療薬一点のせいにするものである。
だが、こうした一点論を普段みな誰しもしがちである。雨が降ればそれを誰かひとりのせいにして雨男と呼ぼうとするようなオカルトから始まり、交通事故を車とか自転車とか何か一点のせいにしようとすることや(実際、保険請求をする段になると、そうした単純な見方をとれないことに気付かされる)、仕事がうまくいかなければ誰か戦犯をひとり探そうとすることに至るまで、日常生活にはありとあらゆる一点論の実践が認められる。
また出来事を何か一点のせいにするこの一点論は、差別主義者の頭のなかで起こる差別の論理でもある。在日外国人が罪を犯したような場合、差別主義者はその犯罪という出来事を、その在日外国人の「何々人である」ということ、一点のせいにし、その「何々人である」ことがそうした罪を犯させた(させる)と結論付ける。要するに、何々人は「みんな」「どこででも」そうした罪を犯す、ということにするわけである。
出来事を一点のせいにするのはこのように、その一点さえあればそうした出来事が起こってくると考えることである。言い換えれば、その一点がそういった出来事を「どこででも」引き起こすとする極端な推理法である。むしろ物理学や化学が俺たちに教えてきたのは、出来事というのは こうした表現が適切かどうかはわからないが 複数の因子が互いに連れ合って起こるものであるということなのである。
力学を思い出してみよう。ボールが転がってテーブルの下に落ちるのを力学は何か一点のせいにするだろうか。その一点さえあれば、ボールがテーブル下に落ちるという出来事がどこででも起こるとする、そんな荒唐無稽な予測を立てるだろうか。テーブル下にボールを落としたければその一点をその場に持ち込みさえすればいい、といった考え方をとるだろうか。
出来事を一点のせいにできるなら、物理学は各分野でああした複雑な法則をわざわざ発見する必要はなかっただろう。
化学はどうか。化学では、各物質が持つ作用について云々する。しかしその作用は或る特定の「条件」のもとではじめて現実のものとなる、と説いてきたのではなかったか。特定の作用を持つとされる物質は「どこででも」「いつでも」その作用を発するとは語ってこなかったのではないか。
物理学や化学は、出来事が何か一点のせいにできるほど単純なものではないことを俺たちに暗に知らしめてきた。出来事を一点のせいにするそうした通俗的原始的出来事観から脱却しておればこそ、それらは学問となり得た、すなわち実績をあげることができたのである。
しかるに、医学はひとり無自覚にも原始からの通俗に従いつづけ、終始、ひとの身体に起こる出来事を身体のなかの一点のせいにしてきた。
たとえば人間の言動を正常と見なした場合、それを脳一点のせいにするといったようなことをしてきた。そうすることによって脳を人間の言動を「司る者」と擬人化してきた(脳の機能局在論を参照せよ)。人間の身体をロボットと、そして脳をその操縦士と見てきた。
あるいは、身体に起こる出来事を異常と見なした場合には、がん、ウイルス、細菌、アレルゲン、もしくは脳内物質やホルモンの欠乏や過剰といった一点のせいにしてきた。先だって統合失調症について考察していた際は、医学がそれをセロトニンという脳内物質の欠乏一点のせいにすることに固執しているのを俺たちは目の当たりにした。で、異常と見なした出来事をそのように一点のせいにすると、その一点は今度は「悪魔」と擬人されることになる。免疫学なる医学分野では実にウイルスや細菌等は「悪魔」と、いっぽう各種免疫細胞とやらは「正義の戦士」と擬人化される。
さらに医学は医療行為の評価についても一点論をやってきた。たとえば、或る感染症の感染者が年々減少していれば、それをワクチン一点のせいにするといったようなことをしてきた。