*認知症の人間の言動は理解不可能か・序
ここ最近ずっと統合失調症について考察してきた*1けれども、今度はいわゆる認知症をとり挙げる。
でもなぜ認知症を?
この世には、「理解不可能」な人間と学問に、権威に、烙印を押されてきたひとたちが数知れずいる。その代表的な例として誰にでも真っ先に思いつくのはおそらく、統合失調症と診断されてきた人々ではないだろうか。
かつてクルト・コレは、精神分裂病〔引用者注:当時、統合失調症はそう呼ばれていた〕「デルフォイの神託」にたとえた。私にとっても、分裂病は人間の知恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎であるような気がする。(略)私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか(木村敏『異常の構造』講談社現代新書、1973年、p.182)。
専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ「了解不能」で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能」であることが、この病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司『統合失調症、その新たなる真実』PHP新書、2010年、pp.29-30)。
そして、この統合失調症の次にみなさんの脳裏に思い浮んでいるのが、認知症と診断されてきた人たちではないか、というわけである。
前回俺たちはまず、この世に「理解不可能」な人間の言動など存在し得ないことを理論的に証明し*2、そのあと、統合失調症と診断されてきたひとたちがその理論どおり、「理解不可能」な人間なんかでは決してないことを、複数の具体例をひとつひとつ検証しながら確認した*3。
今度はそれとおなじことを、認知症と診断されてきたひとたちについてもやってみようというのである。
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