*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.34
◆自分のことがうまく理解できなくなってきた
まずこう書いてありましたね。
小学校時代は、大過なく過ごした。本人の話では、目が大きかったので、「デメ」とか「デメキン」と呼ばれていじめられたことがあったという。
しかし母親の話では、学校の友達が家に遊びに来たり、逆に遊びに行ったりすることはよくみられ、深刻ないじめはなかった。(略)
エスカレーター式に中学に進学したが、友達はあまりできなかった。本人は当時を回想し、「一人で孤独だから、死にたいという気持ちになった」というが、学校生活では特別な問題はみられず、成績は比較的上位であった。
で、中学に進むとこういうことがあったとのことでした。
本人の話では、この当時他の生徒から、ワイシャツに落書きされたり、ソースをつけられたり、あるいは机の上に置いたプリントをわざと落とされたりするというようないじめに繰り返しあったという。しかし、「いじめ」に関して事実関係は確認できず、現実の出来事ではなく、本人の被害妄想が始まっていた可能性が大きいと思われる。
ここから腰を据えて考察していきます。
Nさんが訴えるように、たしかに、ワイシャツに落書きされていたり、ソースをつけられていたりすることがあったのでしょう。机の上に置いておいたプリントが落とされていたということも、ほんとうにあったことなのだろうと俺、信じますよ。Nさんは、実際にあったそうしたことから、嫌がらせをされていると確信した、ということなのだと、俺、思います。
だけど、それはほんとうに同級生たちがわざとやったことだったのか。
同級生が嫌がらせをしている現場を押さえたり、誰かが自白してきたりといった決定的な証拠はなかったということでしたよね。なら、何かの拍子にワイシャツに誰かの鉛筆の先がたまたま当たって、落書きみたいな模様がついてしまったとか、誰かがソースのついた手で知らずにNさんのワイシャツに触れてしまったとかという可能性も、考えられないではありませんね? 机の上に置いておいたプリントが、Nさんのいない間に、机の近くを誰かがとおった際の風圧で、もしくは窓から入ってきた風を受けて、机から舞い落ちただけという可能性も、おなじく、考えられないではありませんね?
誰かがわざとやったというのではない可能性も無視することはできませんね?
いや、ワイシャツに落書きされているとか、ソースのあとがついているとかしたら、そりゃあもう大抵誰だって、嫌がらせをされているのではないか、と疑うに違いありませんよ。机の上に置いてあったプリントが、知らないうちに床のうえに落ちていたりしても、そうですよ。でも、決定的な証拠がない間は、そう疑うと同時に、いま言いましたように、嫌がらせではない可能性についてもみなさん、思いを巡らせませんか?
つまり、それを誰かの嫌がらせではないかと疑う自分を、同時に疑いもしませんか。自分はひとを疑りすぎているのではないか、って。ひょっとして、誰も嫌がらせなどしていないのではないか、って。
そうして、誰かが嫌がらせをしているという可能性と、自分がひとを疑りすぎているだけであるという可能性(思い違いをしているという可能性)のふたつを、同時に念頭に置きながら、みなさん、悶々とするのではありませんか。
でも、Nさんが、同級生たちを疑う自分を、疑うことはなかった。自分が思い違いをしているだけである可能性に思いを致そうとすることはなかった。
Nさんにしてみれば、自分がそこで思い違いをしたりするはずはなかったのかもしれませんね。
いや、いっそ、Nさんのその見立てを、語弊があるかもしれませんけど、こう言い直してみることにしましょうか。そのときNさんには、自分が「思い違いをしている」はずはないという自信があったんだ、って。
2021年8月13,15日に文章を一部修正しました。
*今回の最初の記事(1/8)はこちら。
*Nさんのこの事例は全6回でお送りします(今回はpart.2)。
- part.1(短編NO.33)
- Part.3(短編NO.35)
- Part.4(短編NO.36)
- Part.5(短編NO.37)
- Part.6(短編NO.38)
*このシリーズ(全48短編を予定)の記事一覧はこちら。