*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.25
大学構内を出て、グラウンド坂を少し下がり、学生時代よく行っていた「キャプテン」という喫茶店をのぞいてみようと思ったが、シャッターが閉まっていた。(略)
考え事をしながらフラフラ歩いていくと、薬屋の隣に空き地があった。『ど根性ガエル』に出てくるような空き地だと思ってその中に入った。材木が横積みになっており、その上に白いプラスチック板が二枚、立てかけてあった。「何だろう」と思ってそれをひっくり返した。なんとそれは小田急線の時刻表だった。
実家から大学へ通っていた頃毎日使っていた、そしてこれから帰るのに使おうとしている小田急線の時刻表がここにある。もう僕にはこれが偶然だとは思えなかった。僕がこの世界を作っている。もう少し穏当な表現をすれば、僕が見知っているこの世界は、僕のイメージの産物だ、ということに気がついてしまった。空想的な遊びではなく、実感してしまったのだ。普段使わない思考回路が次々とつながり始め、それまでの幸せな気分は吹き飛び、急転直下、地獄へ落とされた。
僕は気づいてはいけないことに気づいてしまったんだ。世界が僕のイメージでできているなら、ちょっとでも不吉なことを考えれば、世界は、あるいは僕は消え去ってしまうではないか(小林和彦『ボクには世界がこう見えていた』新潮文庫、2011年、pp.114-115、ただしゴシック化は引用者による)。
先ほど、予測したとおりのことをいま小林さんは言っていましたね。
この早稲田大学訪問日の数ヶ月前からしきりに「現実を自分に都合良く解釈」しつづけているうち、小林さんは、その訪問日の二、三日まえから、「現実(世界)は僕のためにある」という誤った手応えを感じるようになった。で、早稲田大学に来たこの日、「世界は僕のためにある」というそれは、実は「世界は僕のイメージで出来ている」ということを意味しているのだと考え改めることになった。でも、そう考え改めた途端、小林さんは恐怖に凍りついた。そのように「世界が僕のイメージで出来ている」のなら、僕が「ちょっとでも不吉なことを考えれば、世界は、あるいは僕は消え去ってしまうではないか」って。
小林さんが言う「世界は僕のためにある」ということの意味と、「世界は僕のためにあるというのが違和感を与える」ということの意味を、いま、ちょっと立ち止まって考えてみました。小林さんのそのふたつは、しきりに「現実を自分に都合良く解釈」してきた当然の産物と言えるかもしれないということでしたね。
次回は翌週9月14日(月)21:00頃にお目にかかります。
2021年9月28,30日に文章を一部修正しました。
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