*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.25
◆「世界は僕のためにある」という誤った手応え
ところで、いま小林さんは「世界は僕のためにある」とか、「それがこんなにも違和感を与えるものだとは思っていなかった」とかと言っていましたよね。再引用して確かめてみますね。
どうも何かがおかしい、と僕はそろそろ気づき始めた。目に見えるもの、耳に聴こえるもの、周りのすべてのものが、どこかよそよそしく、不自然なのだ。何者かが、「この世界は僕のためにある」というシグナルを絶えず送り続けている感じなのだ。
「世界は僕のためにある」とは、二〜三日前から考えていたことだが、それがこんなにも違和感を与えるものだとは思っていなかった(小林和彦『ボクには世界がこう見えていた』新潮文庫、2011年、p.113、ただしゴシック化は引用者による)。
この「世界は僕のためにある」とか、「それがこんなにも違和感を与えるものだとは思っていなかった」というのは、いったいどういうことを意味するのでしょう?
- 「世界は僕のためにある」とは何か。
- 「世界は僕のためのある」というのが違和感を与える、とは何か。
つぎの場面に進むまえに、そのふたつについて、立ち止まって考えてみますよ。
ここまで、小林さんがしきりに「現実を自分に都合良く解釈している」のを見てきていますよね(これからも見ていくことになりますけど)。そうした解釈を、小林さんはこの早稲田大学訪問日の数ヶ月まえから、しきりにするようになったと言っていました。みなさん、覚えていますか。小林さんは、野坂昭如にまつわるふたつの出来事を例に、そのことをこう説明していましたよね*1。
『パラダイム・ブック』で想像力を刺激されたのかどうかわからないが、この頃から、テレビ、ラジオ、本からの情報に過敏に反応して、色んなメッセージを受け取るようになった。
例えば、この時期一番好きなタレントはとんねるずだったが、『オールナイトニッポン』で石橋貴明が野坂昭如に殴打された場面を見て、その野坂のあまりの醜態ぶりに、「彼は自分を犠牲にしてとんねるずを応援しようとしているのではないか」と想像してしまった。
野坂が衆院選で新潟3区から立候補した時も、「彼は本当は田中角栄が好きで、角栄とその陣営を鼓舞するために、自分を捨て駒にしたのではないか」と思っている。僕は田中角栄も野坂昭如も好きなので、これが一番都合がいい解釈だった(同書pp.54-55、ただしゴシック化は引用者による)。
小林さんは、早稲田大学訪問日の数ヶ月まえから、そのようにしきりに「メッセージを受けとる」ようになった。つまり、「現実を自分に都合良く解釈する」ようになった。そして、そんなふうにしきりに「現実を自分に都合良く解釈している」うち、「現実(世界)は僕のためにある」という誤った手応えをヒシヒシと感じるようになったのではないでしょうか。
それが、この早稲田大学訪問日の二、三日まえのことだった。ほら、ふたつまえの引用文中で小林さんはこう言っていましたね? 「『世界は僕のためにある』とは、二〜三日前から考えていたことだが」って。
いままず、小林さんの言う「世界は僕のためにある」というのが何なのか確認しました。しきりに「現実を自分に都合良く解釈している」うち、「現実(世界)は僕のためにある」という誤った手応えを小林さんは感じるようになっていたのではないかということでしたね。
2021年9月28,30日に文章を一部修正しました。
*今回の最初の記事(1/6)はこちら。
*前回の短編(短編NO.24)はこちら。
*このシリーズ(全43短編を予定)の記事一覧はこちら。
*1:そう説明していた場面を下の記事で見ました。