*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.25
◆クズかごの中身に不自然さを感じる
さあ、どんどん先に進みましょう。さっきの引用の直後を見ますよ。
その後、演劇博物館へ行き、大隈庭園へ行った。(略)
グラウンド坂の方へ行こうと、再び大学構内へ入っていった。一五号館前にワンゲルか何かのサークル員がたむろっていて、ラジウスという懐かしい言葉を耳にした。
ふと、クズかごに目がとまり、近づいてみるとビックリした。その中に捨てられてあったのは、カロリーメイトの空き箱、カップスープの空き箱、ポカリスエットの空き缶など、僕愛用の品々ばかりで、しかも真新しくてゴミという感じがしなかった。僕がここへ来るのを察知していて、何者かがあわてて集めたような、不自然さを感じた。こんなきれいなゴミが、世の中にあるものなのだろうか(小林和彦『ボクには世界がこう見えていた』新潮文庫、2011年、pp.112-113、ただしゴシック化は引用者による)。
クズかごが小林さんの目にとまったとのことでしたね。近づいて行ってみると、そのクズかごのなかに「カロリーメイトの空き箱、カップスープの空き箱、ポカリスエットの空き缶など」が認められた。
けど小林さんからすると、小林さん愛用のそうした品々が、真新しいまま、目のまえのそのクズかごに、捨てられるはずはなかったのではないでしょうか。いや、いっそ、小林さんのその見立ても、少々語弊があるかもしれませんけど、こう言い換えてみることにしましょうか。そのとき小林さんには、そうした品々が目のまえのクズかごに捨てられていはずはないという自信があったんだ、って。
小林さんの愛用品ばかりが、真新しいまま、目のまえのクズかごに捨てられている(現実)。しかしその小林さんには、そうした品々がそこに捨てられているはずはないという「自信」がある。
このように「現実」と「自信」とが背反するに至ったとき、ひとにとることのできる手は、先にも言いましたように、つぎのふたつのうちのいずれかであるように俺には思われます。
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A.その背反を解消するために、「自信」のほうを、「現実」に合うよう訂正する。
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B.その背反を解消するために、「現実」のほうを、「自信」に合うよう修正する。
ではその場面でもし小林さんが前者Aの「自信のほうを訂正する」手をとっていたら、事はどうなっていたか、ここでも想像してみましょうか。もしとっていたら、小林さんは、こんなふうに「自信」を改めることになっていたのではないかと、みなさん、思いません?
「いや、よく考えてみると、ボクの愛用品ばかりが、真新しいまま、そのクズかごのなかに捨ててあっても、何らおかしなことはないな。ボクが、そうしたことはあり得ないと勝手に思い込んでしまっていただけだな」
でもその場面で実際に小林さんがとったのは後者Bの「現実のほうを修正する」手だった。すなわち、そうした品々が目のまえのクズかごに捨てられているはずはないとするその自信に合うよう、小林さんは、現実をこう解した。
さては、「僕がここへ来るのを察知していて、何者かがあわてて〔そうした品々をクズかごに〕集めた」んだな。そうでもなければ、ボクの愛用品ばかりが、真新しいまま、そのクズかごに捨てられてあるはずないもんな、って。
いまの推測も、箇条書きにしてまとめてみます。
- ①小林さん愛用の品々が、真新しいまま、目のまえのクズかごに捨ててある(現実)。
- ②そうした品々が目のまえのクズかごに捨てられているはずはないという自信がある(現実と背反している自信)。
- ③その自信に合うよう、現実をこう解釈する。「さては、『僕がここへ来るのを察知していて、何者かがあわてて〔そうした品々をクズかごに〕集めた』んだな。そうでもなければ、ボクの愛用品ばかりが、真新しいまま、そのクズかごに捨てられてあるはずないもんな」(現実を自分に都合良く解釈する)。
2021年9月28,30日に文章を一部修正しました。
*前回の短編(短編NO.24)はこちら。
*このシリーズ(全43短編を予定)の記事一覧はこちら。