*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.20
目次
・殺し屋に狙われているという幻覚
・錯覚する
・錯覚しているはずはないという自信
・まとめ
・牛の怪物に襲われる幻覚
・締めの言葉
◆殺し屋に狙われているという幻覚
以前論理的に証明しましたように、この世に「理解不可能」なひとなどただのひとりも存在し得ません。なのに、(精神)医学は一部のひとたちを不当にも、「理解不可能」と決めつけ、差別してきました。
前回、そうした差別を受けてきたひとたちのなかから、ハウス加賀谷さんに登場してもらいましたよね。で、統合失調症の症状と診断され、「理解不可能」とされてきた、ハウス加賀谷さんのふたつの体験について、ほんとうは「理解可能」である旨、実地に確認することにしましたね。
前回はまず、いわゆる幻聴体験をとり挙げました。
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前回はこちら。
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今回は、いわゆる幻覚体験を見ていきますよ。
今回見るのは、ハウス加賀谷さんが芸人になったあと、しばらくしてからの場面です。相方の松本キックさんはそのときのことをこんなふうに書いています。
自殺は思いとどまった加賀谷だったが、断薬や、薬の過剰摂取は繰り返していた。症状は日に日に悪化の一途をたどっていた。
加賀谷の日常は壮絶なものだった。
「誰かが、僕の命を狙っている」
統合失調症の陽性症状、妄想が現れていた。
常識で考えると、あり得ない、荒唐無稽な話だが、妄想という症状が出ている加賀谷にとっては、事実でしかなかった。
「僕は殺される。プロの殺し屋が僕を殺しにやってくる」
妄想は日を追うごとに強固となり、加賀谷の心を蝕んでいった。
晴れた日、夕刻前。
築15年ほどの4階建てマンション。4階角部屋、2DKの部屋に、加賀谷は一人で住んでいた。
南向きに、ベランダに面した大きな窓があり、太陽の光が強く差し込み眩しい。光を遮るカーテンはなく雨戸もない。唯一、白くて薄いカーテンだけが吊されていた。
窓を開けると、風が出入りし、レースがふわりふわりと揺れていた。めくれた隙間から、加賀谷はふと外の風景を見た。向かいにあるビルの屋上、信じがたい光景があった。
黒い服に、黒いゴーグルの男、立っていた。
「まずい……」
命の危険を察知する。神経が逆立ち、鼓動が激しくなる。
黒い服の男が動き出した。屋上のフェンスから身を乗り出し、ライフルを構える。照準は加賀谷の額、ピタリと狙いが定められていた。
「うわあぁぁぁ……」
叫び声が響き渡った。
反射的に体が反り返り、もんどりうって転倒、床に突っ伏す。頭のてっぺんから足のつま先まで、ガタガタと震え、上下の奥歯はこすれ合い、ガチガチと音を立てた。
「殺さないで、お願い、殺さないで下さい」
震える体を押さえ込もうと、両手をクロスさせ、自分で自分を抱え込むようにギュッと力を入れた。指先が上腕に食い込み痛みが走る。
涙が、ボロボロと流れてきた。
こんなの嘘だ。黒い服を着た男なんか、殺し屋なんかいるはずがない。
恐怖を振りきろうと、加賀谷は立ち上がり、もう一度窓の外を覗いてみた。
「ああぁっ……」
黒い服の男はライフルの銃口を向け、獲物に隙ができるのを待っていた。
「助けてくれ、助けてくれ」
声にならない声を上げ、加賀谷は床に伏せ、再び自分を抱きしめた。
「殺される、殺される。ついにプロのスナイパーが殺しに来た」
幻視だった。
実体のないものが、加賀谷には見えていた。見えているから真実で、それがすべて。脳が作り出した幻という発想はなかった。
スナイパーは幾度となく現れた。
向かいのビルの屋上から、窓下の駐車場に停車している軽トラックの荷台から、電柱の陰から、昼も夜も加賀谷を狙った。
向かいのビルが見える大きな窓は、下から50センチだけ、すりガラスのように曇っていた。
「ここだ。このスペースに隠れよう」
ここに隠れていれば僕の姿は分からないはずだ。撃たれることもない。バカバカしい行動だが、真剣だった。部屋における加賀谷の生活は、床から50センチ以下に限定されていた。
移動するときはほふく前進、ご飯も這いつくばって食べる。音を立てず、夜になっても明かりはつけなかった。以前、カーテンに映った影をスナイパーが撃ちぬき、ターゲットを殺したという小説を読んだことがあった(松本ハウス『相方は、統合失調症』幻冬舎文庫kindle版、2018年、位置No.499-528、2016年、ただしゴシック化は引用者による)。
2021年9月16日に文章を一部修正しました。
*前回の短編(短編NO.19)はこちら。
*このシリーズ(全43短編を予定)の記事一覧はこちら。