(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

なぜ気象は例年どおりではなかったら、異常と決めつけられるのか

*障害という言葉のどこに差別があるか考える第14回


 第1部(現在は第2部)で、正常異常の区別は実は機械に対してつけられず、当然ひとに対してもつけられないことを確認しました。そもそも異常な機械も異常なひともこの世に存在しないとのことでした。なら、気象に対しても正常異常の区別はつけられない、そもそも異常な気象はこの世に存在しないと考えるのが至当です。


 にもかかわらず、この街、昨年10月の雨降りの日々を俺は先ほど、一瞬とはいえ、異常気象と決めつけてしまいました。うかつにも、昨年10月の灰色の気象を異常であると決めつけたその経緯をいま、明らかにしようとしています。


 俺の住む街では、例年10月は、秋晴れの日がつづきますが、昨年はうって変わって連日、雨が降りつづきました。まさに昨年10月の気象は「例年どおりではない」ものでした。俺はその「例年どおりではない」ことをもって、昨年10月の気象を異常であると決めつけたのではないかと、先ほど申し上げましたところです。


 ですが、いったいどうして気象の「例年どおりではない」ことが、そのとき俺には異常であると思われたのでしょう。何を根拠に俺は、気象の「例年どおりではない」ことを、異常であると考えたのでしょうか


 ホトホト溜息の出るくどさですが、神経質ココに極まれりとばかりに、改めてつぎのことを確認します。


 機械に正常異常を言うとは、機械が《作り手の定めたとおりになっていない》のを問題とすることでした。そして機械が〈作り手の定めたとおりになっている〉のを正常、機械が《作り手の定めたとおりになっていない》のを異常と呼ぶことでした。これと同じで、気象に正常異常を言うのは、気象が《作り手の定めたとおりになっていない》のを問題とし、気象が〈作り手の定めたとおりになっている〉のを正常、気象が《作り手の定めたとおりになっていない》のを異常気象と呼ぶことだと考えられます。


 俺が、この街、昨年10月の気象を、「例年どおりではない」ことをもって、異常であると決めつけたというのは、気象のその「例年どおりではない」ことを、《作り手の定めたとおりになっていない》ことと見た、ことを意味します。


 つい、いましがたこう問いました。なぜ昨年10月の気象の「例年どおりではない」ことが、俺には異常と思われたのか、と。その問いをこう言い直すことができるわけです。


 なぜその気象の「例年どおりではない」ことが、《作り手の定めたとおりになっていない》ことと俺には思われたのか


 では、ぜひぜひそう問い直してみましょう。なぜ、昨年10月の気象の「例年どおりではない」ことが、《作り手の定めたとおりになっていない》ことと俺には思われたのか。


 するとこう思い当たります。


 気象は作り手によって、例年同じになるよう定められているとする偏見を、俺は持っていたのではないか、と。


「気象は作り手によって、例年同じになるよう定められている」とする偏見を持っていたばっかりに、昨年10月の気象の「例年どおりではない」ことが、《作り手の定めたとおりになっていない》こと、すなわち異常と俺には思われたのではないでしょうか。


第13回←) (第14回) (→第15回

 

 

このシリーズ(全24回)の記事一覧はこちら。