*障害という言葉のどこに差別があるか考える第11回
正常異常の区別は実は機械に対してつけられず、当然ひとに対してもつけられないという結論に行きついたいま、ここまでを簡単にふり返らせてください。
この文章は僭越ながら、障害という言葉について、障害者をさして「害」と言っているようには思われない、と申し上げるところからはじまりました。が、そう申し上げたあと、俺はあわててこういった旨のことを付け加えました。
「不肖俺が考えるに、障害という言葉にみなさんが違和感をお覚えになるのは故無きことではない。科学は健康とか健常を正常であること、病気を異常であることと定義づけ、ひとを正常なもの(健康なもの・健常者)と異常があるもの(障害者)とに二分するけれども、そのように分けるのは、不当な差別に他ならない。その不当な差別こそ長いあいだ、いろんな方々が障害という言葉にお覚えになってきた違和感の正体であるにちがいない」。
そしてちょうど先ほど、みなさんのお力をお借りしながら、ひとを正常と異常に振り分けるのが不当な差別以外の何ものでもないそのことを確認し終えたという次第です。
こういうことでした。
正常異常の区別は機械に対してつけられない。当然ひとに対してもつけられない。そもそも異常なひとはこの世に存在しない。にもかかわらず、ひとを正常と異常に振り分ければ、両者のひとたちのあいだに不当な差をつけ、差別していることになる。
実に科学(医学と言ったほうが適切でしょうか)は権威の名のもと、ずっと不当な差別をしてきたわけです。ちょっとやそっとでは数えきれないほどのひとたちが異常と決めつけられてきたはずですし、いまも刻一刻と、病院や学校やカウンセリングルームやメディアや専門書籍やでひとが異常と決めつけられ、その勢いはつゆ止みそうにありません。やれ、アスペルガー症候群だ、注意欠陥多動性障害だ、自閉症スペクトラムだとつぎからつぎへとあらたな不当差別の仕方を科学者は編み出してきます。
いきなりですが、みなさん、お聞こえになりますか、いま頭上で鳴りひびいている第2部開幕の鐘の音が?
第1部で、ひとを正常(健康なもの・健常者)と異常(障害者)に振り分けるのが不当な差別以外の何ものでもないことを確認なさったみなさんと俺はこれから、つぎのナゾの解明に向けて歩んでいきます。
果して科学は不当にも誰を異常と決めつけるのか。
次回は2月4日(日)9:00にお目にかかります。
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