*障害という言葉のどこに差別があるか考える第7回
ひとに作り手は存在しないと考えようが、自然をひとの作り手と想定しようが、結論は同じでした。正常異常の区別は機械に対してはつけられても、ひとに対してはつけられません。ひとを正常と異常に振り分ければ、不当な差別をしていることになります。
と、まだ申し上げないうちに早速、あらたな反論が聞こえてきたようです。
「お前さんね、ろくに考えもしないでそんなふうに結論を出しちゃ早計の誹りを免れないよ」
みなさんにもいま聞こえていらっしゃいますか?
「ねえ、よく考えてごらん。科学はひとの作り手を自然と考えると先ほどわたしは言ったがね、科学の古い考えかたを代弁してみただけのことだよ。もはや現代科学は、ひとの作り手を自然とは考えない。遺伝子、と考える。神経質なお前さんは先ほどからクドクド言ってるね、ひとに正常異常を言うとは、ひとが《作り手の定めたとおりになっていない》のを問題にすることだって。ひとにとって《作り手の定めたとおりになっていない》というのはいまや《遺伝子の定めたとおりになっていない》ということであってね、それはもっと言えば《遺伝計画どおりになっていない》ということであるからして、お前さんの・・・・・・」
けれども、こうした反論にたいし、俺は僭越ながらきっぱりと、こう申し上げます。ひとの作り手を遺伝子と見ることは不適切であるとしか考えられません、と。
科学は細胞の核のなかにDNAといま呼ばれている物質を見つけるずいぶんまえから、ひとの身体に起こるありとあらゆる出来事を一点のせいにできると決めつけて、遺伝子と名づけたその一点の存在を当たりまえのように想定していました。そして、DNAとのちに呼ぶことになる物質を見つけたとき、それこそ、存在すると長らく思い描いてきた遺伝子なるものにちがいないと即断しました。で、いまや現代科学は、受精卵が細胞分裂をくり返して大きくなりながら変形していくという出来事も遺伝子という一点のせいにすれば、話す、眠る、動く、判断する、笑う、怒る、鬱々とする、といったひとの身体に起こるそのほかの出来事もみな、遺伝子一点のせいにするに至っています。
そうして、ひとの作り手を遺伝子としています。
ですが、物理学や化学は非常に長い年月をかけて、この世に起こる出来事はどんなものであれ、一点のせいにすることはできないと示しつづけてきたのではなかったでしょうか。雨が降るのをひとりの人間のせいにしたり、周囲でつぎつぎと不幸が起こるのを近所に住む女性の(魔術の)せいにしたり、戦争に負けたのを国内に住む一民族のせいにしたりするといったように、ひとを不当差別するときによく用いられる、出来事を一点のせいにするそうした見方では現実をまともには捉えられないことを物理学や化学は示唆してきたのではなかったでしょうか。
科学分野のいまも昔も変わらない大黒柱である物理学でイの一番にみなさんが学習なさる力学では、出来事はどのように説明されるでしょう。ボールがテーブルのうえを転がるという出来事なら、その出来事を、当のボールに最初に衝突した白球だけのせいにできるとみなさんや俺に教えるでしょうか。当のボールが転がるという出来事を捉えるには、その白球のみならず、当のボールにかかる地球からの重力、当のボールがテーブルから加えられる垂直抗力、当のボールがテーブル表面から受ける摩擦力、さらには当のボールが乗っているテーブルの傾き具合などにも考慮する必要があると説くのではないでしょうか。たったひとつのボールの行く末ですら、このように当のボールを、白球、地球、テーブル表面、テーブル本体、床など、複数の存在と「力」なるものでつないで考えなければ見通せそうにないと言うのではないでしょうか。
現代科学は身体に起こる出来事を遺伝子という一点のせいにします。そうすることで、遺伝子がそうした出来事の青写真を持ち、それを具体化していることにします。DNA上のATGCによる塩基配列こそその青写真であると考えます。が、それは果して、適切な出来事の捉え方と言えるでしょうか。いやむしろ、物理学や化学のこれまでの努力と実績を全否定するものの見方であると言うべきではないでしょうか。
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出来事を一点のせいにすることが不適切であると考えられる以上、遺伝子をひとの作り手と想定することはできません。ひとの作り手を遺伝子と想定し、ひとに対して正常異常の区別をつけることはできないものと思われます。
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