肝臓が故障しているとか、脳が壊れているといった言いかたがよくされる。
もはや身体の検査は車を検査するのと同じく、故障の有無を調べることであって、「病気とは故障、治療とは修理」といったところだろうか。
なんともすばらしくわかりやすいものの見方だと思う。
が、反面こうも思う。肝臓も脳もその他身体のうちのどんな部分も、故障したり壊れたりすることは絶対にないはずであるが、と。
どういうことか。
こういうことである。
機械はどんなときに故障しているとか壊れていると言われるか。スイッチを入れたのに掃除機がゴミを吸引しないとか、起動ボタンを押したのにパソコンが立ち上がらないといったように、作り手の定めたとおりになっていないという問題が有るとき、ではないだろうか。だとすると、肝臓が故障していると言えるのは、肝臓に「作り手の定めたとおりになっていない」という問題が有るときであり、かたや脳が壊れていると言えるのは、脳に「作り手の定めたとおりになっていない」という問題が定着したときであることになる。
では、肝臓や脳やの作り手とは何か。機械の作り手というのはひとであるが、肝臓や脳やの作り手とは?
科学は、この世の万物はひとつの例外もなくみな、法則にしたがうと考える。そんな科学なら、肝臓や脳やの作り手を、自然、と考えるのが筋ではないだろうか(遺伝子と考えるのは筋に合わない)。
したがって肝臓が故障していると言えるのは、肝臓に「自然の定めたとおりになっていない」という問題が有るときであり、かたや脳が壊れていると言えるのは、脳に「自然の定めたとおりになっていない」という問題が定着したときであるということになる。
しかし、である。
「自然の定めたとおりになっていない」というのは、自然法則どおりになっていないということである。「自然法則どおりになっていない」とはさらに言い換えれば、奇蹟を呈しているということである。こうした奇蹟の存在を科学はこの世に認めることができない。奇蹟の存在を認めればその途端に科学は科学ではなくなってしまう。科学には、肝臓にも脳にも、「自然の定めたとおりになっていない」という問題が起こり得るとは絶対に考えられはしない。
つまり先に書いたように、肝臓も脳もその他身体のどんな部分も、故障したり壊れたりすることは絶対にないはず、というわけである。
そもそも医療が真に配慮すべきは、臓器が故障したり壊れたりしているかどうかといったことではないのではないか。ひとが医療に配慮するよう訴えつづけてきたのは実は、苦しみ、ではないだろうか。ひとが真に切望してきた医療処置は、苦しさが減じ、あわよくば快くなることを目的とするものではなかったか。
たしかに肝臓や脳やが思ったように動いてくれなければ、故障しているとか壊れているとかとつい言いたくなる。けれども、故障しているとか壊れているとかいうのは、「私の思うとおりになっていない」という問題が有る状態を言うものではなかった。あくまでも、「作り手である自然の定めたとおりになっていない」という問題が有る状態を言うものだった。まさか不遜にも、「私の思うとおりになっていない」ことをもって、「自然の定めたとおりになっていない」ことであるとし、自然を僭称するわけにもいくまい。
とはいえ科学には、自然によって肝臓や脳やといった臓器はどのひとのもみな同じになるよう定められているとする偏見が根強くある。そうした偏見を持っていると、世の多数派のひとたち(いわゆる、みんな)のと同じではない肝臓や脳や(ただし科学がみんなのより「劣っている」と見るものに限る)がおのずと、「自然の定めたとおりになっていない」という問題の有るものと見えてきて、一転、故障しているとか壊れていると不当にも言ってしまうことになる。
うえの文章を書いたあと、機械にすら異常ということはあり得ない旨、以下の3記事で確認しました(2018年7月21日付記)。