*身体をキカイ扱いする者の正体は第14回
身体を機械と考える科学には、快さと苦しさが何であるのかがよくわからないということを確認しました。
快さや苦しさが何であるのかがよくわからなければ、治療を受けるとしばしばこうむることになる副作用とか毒性と呼ばれる苦しさにもまともに向き合えなくなりますし、みなさんがしておられるように、健康を苦しくない状態がつづくこと、病気を苦しい状態が引きつづくことと捉え、治療を、苦しさが減り、あわよくば快くなることを目的とするものと素直に考えることもまた思いも寄らなくなります。
さて、このchapterも終わりに近づいて参りました。ここまで、心を扱うことになっている精神医学ついては考察から除外して話を進めてきましたが、最後に精神医学につきひとつ見てから、このchapterを閉じることにしようと思います。
精神医学は正常異常という振り分け方を、ひとの言動や認識や感情やに用い、ひとを精神が正常なものと、精神に異常があるものとに分けます。
しかしこのchapterで確認したことを思い出してみてください。果して機械に用いられる正常異常という振り分け方を、機械ではないひと(身体が機械でないなら、ひと丸々ひとつも機械ではないと当然言えます)に用いることはできたでしょうか。
いえ、できませんでした。機械に用いられる正常異常という振り分け方を、機械ではないひとに用いようとしても、誰もがみな正常と判定されるばかりで、異常と判定されるひとはただのひとりも出てきえませんでした。
にもかかわらず、精神医学は不当にも数多くのひとたちを、精神に異常があるものと判定して差別してきたわけです。
精神医学は誰をそのように不当にも精神に異常があるものと判定して差別してきたのか。
「みんな(世間の多数派)と言動や認識や感情やが同じではない」と精神医学には思われるひとたち(ただし精神医学が劣っていることにできると考えるひとたちに限ります。以後省略)、です(精神医学には、世界によってひとの言動や認識や感情やはみな同じになるよう定められているとする偏見があります)。
精神医学はその「みんなのと同じではない言動や認識や感情や」を、統合失調症とか、双極性障害、PTSD、発達障害とかといろんな名前をつけて、精神の異常として理解しようとしてきました。統合失調症なら、「常識が解体」しているものであるとか、「自明性を喪失」したものであるといったように、です。
けれどもちょうど先ほど確認しましたように、正常なひとはいても、異常なひとはひとりたりともこの世には存在しません。精神医学が精神に異常があるとするひとたちは実は異常ではありません。精神医学が精神の異常と見る「みんなのと同じではない言動や認識や感情や」はほんとうは正常です。
しっかり筋道立てて考える限りこのように正常としか考えられないひとたちを、異常として理解しようとしても、それはできない相談です。統合失調症で申しますと、「みんなのと同じではないその言動や認識や感情や」を、「常識の解体」とか「自明性の喪失」などといった精神異常として理解しようとしても思うようにいくはずはありません。実際、統合失調症は永遠に理解不能であると精神科医は言い出すことになりはしなかったでしょうか。
かつてクルト・コレは、精神分裂病(引用者注:統合失調症のこと)を「デルフォイの神託」にたとえた。私(引用者注:尊敬措くあたわざる素晴らしい精神科医です)にとっても、分裂病は人間の知恵をもってしては永遠に解くことのできぬ謎であるような気がする(木村敏『異常の構造』講談社現代新書、2008年、182ページ、1973年)。
もちろん、統合失調症が永遠に理解不能であるのではなく、あくまで、正常なひとを異常があるもの(統合失調症者)として理解するのが永遠に不可能であるということですが。
いや、理解が永遠に不可能であるどころか、診察を受けに来て目のまえのイスに座っているひとを、精神に異常があるものとして理解しようとすることはむしろ、そのひとを理解するのをはなっから拒むことだと言うべきではないでしょうか。
みなさん、相手に気を許して胸のうちを明かし、「あなたのものの感じかたは異常ですね」と言われるそんな場面をひとつご想像になってみてくださいませんか。
どうですか、「あなたのものの感じかたは異常ですね」と言われたときみなさんは、突き放されたと、理解することを頑なに拒否されたとお感じになるとお思いになりませんか。
精神医学は患者を精神に異常があるものとして理解しようとしますが、実のところそれは患者を理解するのをはなっから拒むことではないでしょうか。
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