(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

それは「治った」と言えるのかな

 「治る」という言葉を聞いてヘンな気持ちになるときがあると言いますか。違います違います、セクシュアルな意味じゃありません。みなさんセクシュアルな話、お嫌いでしょう? 安心してください、そんな話しませんよ、なんて。


 「治る」という言葉を聞いて、胸が詰まるような苦しい気持ちになると言いますか。聞けばいつでもそう感じるってわけでもないですけど、いつそんな気持ちになるのか、自分でもよくわかんないです。


 そうですね、たとえば、こんな言葉を聞いたり読んだりするときですかね。


 「何々ガンは手術で取れば治ります」


 お聞きになって、何とも苦しい気持ちになられません?


 私だけですか?


 ヤですよ、もう。


 その「治る」という言葉の意味と、私の周囲でながらく用いられてきた「治る」という言葉の意味が違うような気がすると言いますか。


 ほっぺにできたホクロを取ってもらうとするじゃないですか。跡形ひとつなくキレイにとれた。でもね、ずっと痛みが残ってたり、笑うたびに顔が突っ張ってたりしたら、胸の底から、「治った」とは言えないじゃないですか。


 「治っ」まで言いかけても、そのあとに出てくる言葉は、「ぐぬぬ・・・・・・」ですよ。みなさん、そうじゃないですか。


 ホクロをとった。キレイにとれたとなっても、それだけじゃあ、「治った」とは言いがたい気がすると言いますか。


 網膜が剥離して、目の手術を受けたとしますよ。手術は成功、網膜はキレイにひっついた。モノも以前と同じように見える。でもね、これは仮の話ですよ仮の話ですけれどもね、目を動かすたびに、目に痛みが走るとなれば、どうですか。「治った」と言えますか。「治っ」まで言いかけて、そのあと「ぐぬぬ・・・・・・」とつづけるか、もしくは、「治った。たしかに治りはしたのだけれども・・・・・・・」と言って、暗い顔をウツむけるかしかないじゃないですか。


 そして、目尻のハシには涙がキラリ、ですよ! 


 あくびをカミコロしてるんじゃないですよ!


 「何々ガンは手術で取れば治ります」


 そう聞くたびに、感じるんじゃないかな、ワタシは。考慮すべきものが何かぬけ落ちてるんじゃないなかって。


 病院に行って、内臓にガンが見つかったとしますよ。手術で臓器ごとガンを取り除きました。もう身体のなかにガンはありません。「オメデトウ。これで今後あなたの身体のなかにガンは2度と出来ません」、お医者先生がそう請け合ってくれます。でもね、仮に先生の言うとおりだとしてもですよ、術後、体調が芳しくないとなると、「治った」という言葉がすんなりとは口から出てこないじゃないですか。


 だって、行きたくもない病院なる場所に意を決して行ったのは、苦しみが減り、あわよくば快くなることを目的とする医療処置を受けられるかもしれないと期待してだったわけですよ。なのに、術後、体調が芳しくないとなると、「思ってたのとずいぶん違うなあ」って気持ちが、胸のシコリとなってずっと残るじゃないですか。ひょっとしてお医者先生は、出来物を取り除くことしか考えてなかったのかなって、わたしの苦しさや快さに配慮してくれてなかったのかなって不安にもなりますし、「治った」なんて言葉はそう簡単には口から出てこないと言いますか。


 そんなことないですか?


 相手の苦しみや快さに配慮すること、それが、ひとへの思いやりというものじゃないですか。「思いやり」を欠けば、オ・テ・モ・ヤ・ン、じゃないや、オ・モ・テ・ナ・シ、もできないし、「治す」こともまたできないんじゃないかなって。


 「何々ガンは手術で取れば治ります」


 そう聞くたびになんか感じるんですよね、ひょっとして「思いやり」という超大事なものがぬけ落ちてるんじゃないかなって。思いやりが欠けていればこそ、「治った」とは言いがたい状態をも、「ほら、治ってる!」といともたやすく言っちゃう場合が多々あるんじゃないかなって。


 気のせいですかね?


 訊いてみたいですね。


これまで手術台のうえに寝っコロがってこられた幾千万のひとびとよ

あのときメスに身をゆだねられたみなさんがた

苦しみが減り、あわよくば快くなることを期待しておいでだった?

みなさんがたの耳には、「何々ガンは手術で取れば治ります」って言葉はどう響いてた? 

(了)