(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

みなさんの目の前にあるひとの顔は、上っツラしか見えていない、よなあ?

baseballは科学を批判しつづける第3回


 先にこう申し上げた。マウンドからボールを投げるとき、大谷選手の「身体の物的部分」の一連の動きが、大谷選手の「身体の感覚部分」、大谷選手が目の当たりにしている景色や聞いている音など、大谷選手自身の過去体験記憶や未来体験予想らの関与のもと起こるのを、テレビのプロ野球ライブ中継をご覧のみなさんはまざまざと目撃なさる、と。そのように大谷選手の「身体の物的部分」で一連の物質的出来事が、大谷選手の「身体の感覚部分」、大谷選手が目の当たりにしている景色や聞いている音など、大谷選手自身の過去体験記憶や未来体験予想らの関与のもと起こるというのは詳しく言えば、どういうことなのか、いまから突きつめていく


 ただし、ボールを投げるときの大谷選手の「身体の物的部分」について確認するまえに、まずみなさんご自身の「身体の物的部分」についてご確認いただくことにする。


 さあ、ご想像いただきたい。みなさんはひとりで部屋のなかにおられる。部屋の片隅に置いてある机に着いておいでである。部屋にあるひとつっきりの扉はというと、そのみなさんの背後にある。みなさんは部屋から出て行くためにこれから立ち上がられて後ろをお振り返りになりその扉に向けて一歩一歩、歩み寄って行かれる


 その場合を例に、ここからみなさんと一緒に考え進めていく。


 当初、みなさんは机に着いておられる。ひとつっきりしかない扉は、部屋から出て行こうと考えておられるみなさんの背後にある。


 みなさんにはこのように扉が当初、お見えにはならない。


 では、そうしてお見えにならないあいだ、その扉は、みなさんにたいし、存在しないのだろうか。


 いやそんなことはない。扉はそのときみなさんにはお見えにはならないけれども、たしかにみなさんの背後に、見えないありようとでも言うしかない姿で、存在する。


 そもそも、ふだんみなさんには何がお見えになっているだろう。お見えになっているのは、みなさんがお思いになっているところよりウンと少ないのではないだろうか。目の前に赤いリンゴがお見えになっているとしても、実のところ、リンゴの大部分はそのときお見えになっていない。お見えになっているのは、そのリンゴの、みなさんのほうを向いた面の、しかもその上っツラだけである。中身もお見えになっていなければ、側面も、裏面も、まったくお見えになっていない。お見えになっていない部分のほうが、お見えになっている部分よりはるかに多い。


 では、目の前にリンゴをご覧になっていても、そのリンゴのお見えにはなっていない、中身、側面、裏面は、そのときみなさんにたいし、存在してはいないのか。リンゴのお見えになっている部分、すなわち、みなさんのほうを向いた、皮より薄いその上っツラしかそのときみなさんにたいし、存在していないのか。いや、まさかそんなふうにお考えになるかたはおられないだろう。


 みなさんがひとの顔をご覧になるとき、みなさんには、その顔のみなさんのほうを向いた側の上っツラしかお見えにならない。もしお見えになっている部分しか存在していると認められないのなら、目の前でみなさんにネチネチと説教している上司や教師の顔は、皮膚より薄いぺらぺらの何かということになる。


 また、目がお見えにならないひとには、世界は存在していないことになる。


 物には、「見えるありよう」だけではなく、「見えないありよう」とでも言うべき姿もある。


 目の前にあるリンゴの、お見えにはなっていない、中身や側面や裏面も、目の前にある上司や教師の、お見えにはなっていない、側頭部や中身や後頭部も、みなさんの背後にある扉も、「見えないありよう」とでも言うべき姿で、それぞれ、 みなさんの目の前にあるリンゴの「見えるありよう」(リンゴの上っツラ)の向こう側、 みなさんが目の当たりにされている上司や教師の顔の「見えるありよう」(顔の上っツラ)の向こう側、 部屋の隅の机に着いておられるみなさんの斜めうしろ数十メートルのところに、存在するのである。

つづく


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