(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

身体を機械と見るのが科学の科学らしさではないか、なあ?

baseballは科学を批判しつづける第1回

「科学の身体研究からすっぽりとぬけ落ちている大事なもの」と題した文章のchapter1*1を書いた。身体が機械ではないことを確認するのがテーマだった。


 どなたもみな絶対に正しいとお思いの科学では、まぎれもなく身体を機械として説明している。しかもそれは最近に始まったことではなく、少なくとも、科学の源流にたかだかとそびえ立つデカルト(1596~1650)というセレブリティが身体を機械と見なして以来の話である。そして現在、科学は身体を「生きた機械」と説明する道をしゃにむに歩んでいる最中である(身体を、遺伝子に設計製造された脳によって操縦される機械と説明する道である*2)。


 身体を機械と見るところにこそ、科学の科学らしさがあると言っても過言ではないだろう。みなさんはもし科学者になろうとなさるなら、身体を一転、機械と見られるようにおなりにならなければならない。


 そう、実際のところ、身体は機械ではないのである。


 これからchapter1をふり返る。身体が機械ではないことを、chapter1でやったのとは別のやりかたで確認する


 みなさん、いま、みなさんの身体感覚はどのようにあるだろうか。みなさんの身体感覚はいま、頭の頂きから、手足の末端までひと連なりになっているのではないだろうか。


 では、頭の頂きから手足の末端までひと連なりになっているみなさんのその身体感覚がいまあるのと同じ場所には、ほかに何があるだろうか。


「いま身体感覚があるのと同じ場所に、ほかのものなんてありますか?」


 みなさん、そうお思いになるだろうか。いや、みなさんは、そうお思いにはならない。きっと、こう即答なさる。「あたしの身体感覚があるのと同じ場所にはね、わたしの身体の物的部分とでも言うようなものがありますよ」と。


 そしてこうお続けになる。「身体感覚が、頭の先から手足の末端までひと連なりになっている感覚のことでしたらね、『身体の物的部分』というのは、さしずめ、頭の先から手足の末端までひと連なりになっている物体のことですかね」と。


 みなさんの身体感覚がいまあるのと同じ場所には、みなさんの「身体の物的部分」もある。身体感覚を身体の感覚部分と言うとすれば、「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とが同じ場所を占めてひとつになっているものこそが身体であって、身体には、「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」という二部分があるのだと言えるだろう(同じ場所を占めているもの同士をこのように別部分と言い表すのは、表現としてはおかしいけれどもご容赦いただきたい)。

つづく


このシリーズ(全13回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年8月10日付記。タイトルを「身体が機械じゃないのは明らかであるが」に変更しました。

*2:2018年8月10日付記。そうした身体機械観を突きつめたひとりについてこのblogでかつて考察しました。そのひととはリチャード・ドーキンスです。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

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