(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学の身体説明は何かちょっとニオウとみなさんお感じである2nd

*身体が機械じゃないのは明らかであるが第16回


「身体の物的部分」を研究するとは「状況把握」を突きつめることでした。松の木に歩み寄る例を用いて言えば、「身体の物的部分」が、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音たちや、過去体験記憶、未来体験予想らと、いまこの瞬間まで「どのように応答し合いながら共に在ったか」(過去)を、もっと詳しく、もっと的確に捉えることをとおして、いまこの瞬間から「どのように応答し合いながら共に在るか」(未来)を、もっと詳しく、もっと的確に推し量ろうとすることでした。このように「身体の物的部分を研究するとは、「身体の物的部分だけに着目することではありません。にもかかわらず、科学は「身体の物的部分」を研究すると言いながらも、先述したとおり、「身体の物的部分」のうちにある物質にしか着目しません。しかしそうしますと、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音たちや、過去体験記憶、未来体験予想らが、これまで「どのように応答しながら共に在ったか」(過去)を捉え損ないます。すなわち、「身体の物的部分」にどのようにして物質的出来事が起こるかをうまく説明できなくなります。たとえば説明から大事なものがぬけ落ちたり、説明がご都合主義になったり、都合の悪い事実を隠蔽したりすることになると申しました。


 このシリーズの最後に、「身体の物的部分」を研究すると言いながら、「身体の物的部分にしか着目しなければ、「身体の物的部分で起こる物質的出来事についての説明がどのように不適切となるか、簡単に見てみることにします。


 松の木に歩み寄る例を用いて、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音たちや、過去体験記憶、未来体験予想らが、「応答し合いながら共に在る」ことを何度も確認してきました。このように「身体の物的部分」で、物質的出来事は、「身体の感覚部分の関与のもと起こります。にもかかわらず科学は、「身体の物的部分」で、物質的出来事は、「身体の感覚部分の関与無く起こるとします。これは言ってみれば、全身への血液循環を心臓ぬきに説明しようとするようなものではないでしょうか。


 みなさんどなたも、全身への血液循環に心臓は関与するとお認めになるはずです。全身への血液循環という物質的出来事について、心臓には寄与分があるという言いかたを俺がしても、みなさん、その言わんとするところをご理解くださるでしょう。そして、全身への血液循環という物質的出来事を、心臓ぬきに説明しようとすれば心臓のその寄与分、全身への血液循環に寄与するほかの存在(たとえば動脈あるいは静脈もしくは血液など)が担っていることにでもしないと、説明の帳尻が合わなくなると申し上げても、首肯してくださるのではないでしょうか。


 心臓が収縮することで血液が勢いを得て動脈を流れ、全身に行くというのが実際のところですけれども、心臓ぬきに全身への血液循環を説明するために、心臓が全身への血液循環に寄与する分を、たとえば動脈が担っているということにするのであれば、動脈がなんらかの方法で血液に勢いをつけて全身へ送り出すとでも解釈し、動脈に実際にはありもしない、血液を全身へ押し出す機能を想定することになります。そうして、説明の帳尻を合わせることになります。


 しかしこれはあまりにも説明として強引すぎるとみなさんどなたもお思いになるでしょう。


 では、これと同じことを、「身体の物的部分で起こる物質的出来事の説明でするとすればどうでしょうか。その場合もとうぜん、みなさんは、説明を強引なものとお感じになって、強い違和感を覚えられるのではないでしょうか*1

つづく


前回(第15回)の記事はこちら。


このシリーズ(全17回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年9月30日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。