(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

身体を研究するとはどうすることか(後半)

*身体が機械じゃないのは明らかであるが第14回


身体の物的部分を研究するとは、「身体の物的部分」だけに着目することでは決してなく、「状況把握を突きつめることだと確認しました。


 しかし、「状況把握を突きつめるとは何をすることなのでしょうか


 松の木に歩み寄ったかと思うと遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりするとは、「身体の物的部分」が、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、ペンライトの光、風、音、匂いなどや、過去体験記憶、未来体験予想らと、いまこの瞬間までどのように応答し合いながら共に在ったか」、またいまこの瞬間からどのように応答し合いながら共に在るか」把握に努めながら、すなわち「状況把握」に努めながら、松の木に歩み寄ったり、遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったりすることであって、これはすなわち、いまこの瞬間から「どのように応答し合いながら共に在るか」(未来、いまこの瞬間まで「どのように応答し合いながら共に在ったか」(過去から類推しながら、松の木に歩み寄ったり遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったりするということです。


「状況把握」をするとはこのように、過去から未来を推し量ることであるわけです。


 したがって、「身体の物的部分」研究家である俺(仮定)が、松の木に歩み寄ったかと思うと遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりすることをとおして、「身体の物的部分」につぶさに着目し、「状況把握を突きつめるというのは、「身体の物的部分」が、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、ペンライトの光、風、音、匂いなどや、過去体験記憶、未来体験予想らと、いまこの瞬間までどのように応答し合いながら共に在ったか」(過去)もっと詳しくもっと的確に捉えることをとおして、いまこの瞬間から「どのように応答し合いながら共に在るか」(未来)を、もっと詳しく、もっと的確に推し量ろうとすることであると言えます。


 以上、「身体の物的部分」研究家である俺(仮定)が、松の木に近寄ったり遠ざかったりしながら自分自身の「身体の物的部分」について研究する場合を例に、「身体の物的部分を研究するとは状況把握を突きつめることであって、それは、「身体の物的部分」が、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、ペンライトの光、風、音、匂いなどや、過去体験記憶、未来体験予想らと、いまこの瞬間まで「どのように応答し合いながら共に在ったか」(過去)を、もっと詳しく、もっと的確に捉えることをとおして、いまこの瞬間から「どのように応答し合いながら共に在るか」(未来)を、もっと詳しく、もっと的確に推し量ろうとすることだと申しました。


 これは、検査機器や実験器具を用いたり解剖をしたりして、他人の「身体の物的部分」を研究する場合もとうぜん含めて申しております。ただし、研究者にとって、他人の「身体の物的部分」は研究者自身の「身体の物的部分」より見やすい反面、他人の「身体の感覚部分」や、他人が目の当たりにする松の木の姿、太陽の姿、雲の姿、風の姿、聞く音の姿、嗅ぐ匂いの姿、味わう味の姿(音、味、匂いに姿という言葉を使うのはおかしいと思われるかもしれませんが)などについては、研究者は想像しなければなりません。すなわち、他人の「身体の物的部分」を研究する際には、そのひとがどういう体験をしてきたのか、しているのか、そしてするのかを、想像する必要があります。これをみなさんがふだんお使いになる簡単なひと言で言えば、研究者は他人の身体の物的部分を研究するときにはそのひとの身になって(そのひとの立場に立って)そのひとがどのような体験をしてきたのか、しているのか、そしてするのかを想像しなければならないということです。裏を返して言えば、そのひとの「身体の感覚(部分)」、目の当たりにする存在の姿、聞く音の姿、過去体験記憶や未来体験予想らを、しょせん主観的要素にすぎない(客観的要素ではない)と言って軽視した時点で、「身体の物的部分」がどのようにあったかという過去を捉え損ない、その未来を推し量り損なうことが決まるということです*1

つづく


前回(第13回)の記事はこちら。


このシリーズ(全17回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年9月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。