(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

身体を研究するとはどうすることか(前半)

*身体が機械じゃないのは明らかであるが第13回


身体の物的部分を研究するとは、「身体の物的部分」だけに着目することでは決してなく、「状況把握を突きつめることであり、それはいまの例で言えば、「身体の物的部分」が、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音、匂いなどや、過去体験記憶、未来体験予想らと、いまこの瞬間まで「どのように応答し合いながら共に在ったか」(過去もっと詳しくもっと的確に捉えることをとおして、それらがいまこの瞬間から「どのように応答し合いながら共に在るか」(未来)を、もっと詳しく、もっと的確に推し量ろうとすることだと言えるのではないかと申しました。


 くどいですが、そう申しましたところを確認します。


 みなさん、今度は俺を「身体の物的部分」の研究家とお思いください。俺が自分の「身体の物的部分」を研究すると称して、先ほどからずっと、松の木に歩み寄ったかと思うと遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりすることをとおして、逆に自分自身の「身体の物的部分」に着目しているものとご想像ください。


 さて、松の木に歩み寄ったかと思うと遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりするとは、どうすることでしょうか。それは、自分が、先ほどから何をしてきたか、またこれから何をしていくか記憶と予想を同時にしながら、歩み寄ったり、遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりすることです。それは言い換えれば、自分の「身体の物的部分」が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、いまこの瞬間まで逐一どう答えてきたか、またいまこの瞬間から逐一どう答えていくか把握に努めながら、歩み寄ったり、遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりすること、もっと細かく言えば、「身体の物的部分」が、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、ペンライトの光、風、音、匂いなどや、過去体験記憶、未来体験予想らと、いまこの瞬間までどのように応答し合いながら共に在ったか」、またいまこの瞬間からどのように応答し合いながら共に在るか」、把握に努めながら、松の木に歩み寄ったり、遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりすることです。先に申しましたように、こうした把握こそ、ふだんみなさんが「状況把握」とお呼びになって、あたりまえのようにいろんな局面で、朝メシまえといった感じでおやりになるものでした(前回の最後に記した〈補足3〉)。


 したがって、松の木に歩み寄ったかと思うと遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりすることをとおして、逆に「身体の物的部分につぶさに着目する(「身体の物的部分」を研究する)というのは、「身体の物的部分」だけに着目することではさらさらなく、「状況把握を突きつめることだと言えるというわけです*1

つづく


前回(第12回)の記事はこちら。


このシリーズ(全17回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年9月28日に、内容はそのままで表現を一部修正しました。