(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

状況把握を実にみなさんよくなさっている

*身体が機械じゃないのは明らかであるが第10回


 松の木に歩み寄っているあいだ(だけには限られませんが)、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などのほか、過去体験記憶や未来体験予想も、「共に在るにあたって応答し合い」ます。このように「身体の物的部分で物質的出来事が起こるのに、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音など以外に、過去体験記憶や未来体験予想も関与します


 しかし、過去体験記憶や未来体験予想も関与するという、聞けば一見(一聴?)、込みいって聞こえるかもしれないこうした事情も、実際のところ、みなさん実によくご存じです。


 何をしようとしていたかど忘れし、不意に固まってしまわれることがありませんか。そうした経験は、「身体の物的部分」で、物質的出来事が、過去体験記憶や未来体験予想の関与のもと起こることの証左ではないでしょうか。


 あるいは、過去のとある記憶が急によみがえってきて、汗が吹き出してお困りになることはありませんか。そうした経験は、「身体の物的部分」で、物質的出来事が、過去体験記憶の関与のもと起こることの証左ではないでしょうか。


 また、現在遂行中の仕事が終わったあとに待っているご褒美のことを強く念頭に浮かべると、がぜん、やる気が出てくるといったことはみなさんにもありませんか。そうした経験は、「身体の物的部分」で、物質的出来事が、未来体験予想の関与のもと起こることの証左ではないでしょうか。


 それにそもそも、松の木に歩み寄るとは、自分が松の木に、先ほどからどのように歩み寄ってきていて、また、これからどのように歩み寄っていくか、記憶と予想を同時にしながら歩くことです。すなわち、松の木に歩み寄るとは、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などや、過去体験記憶、未来体験予想らが、いまこの瞬間まで「どのように応答し合いながら共に在ったか」、また、いまこの瞬間から「どのように応答し合いながら共に在るか」、把握に努めながら歩くことです。みなさんは松の木に歩み寄られるとき、あたりまえのように、こうした把握に努めながらお歩きになります。そして、言葉にすると非常に難解で高等な作業と思われかねないこうした把握を、ふだん状況把握とお呼びになって、松の木に歩み寄られるような場合以外にも、道や部屋のなかをお歩きになるときや、車をお走らせになるとき、スポーツをなさるとき、工作をされるときなど、日々いろんな局面であたりまえのように、しかも朝メシまえといった感じでおやりになります(もちろんそうした把握が苦手なかたもいらっしゃるでしょうけれども)。そんなみなさんが、松の木に歩み寄っているあいだ(だけには限られませんが)、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などのみならず、過去体験記憶や未来体験予想も、「共に在るにあたって応答し合う」ということをご存じでないはずがないというわけです。


 さて、今後こうした把握を、遅ればせながら、ふだんのみなさんの言葉をお借りして、「状況把握」と呼んで参ることにいたします。


 最初に「身体の物的部分が機械ではないこと、つぎにそのことをみなさん実によくご存じであることを確認したあと、補足でこういうことを見てきました。引きつづき、松の木に歩み寄る例を用いて申します。

  • 補足1〉松の木に歩み寄っているあいだ(だけには限られないが)、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などのほか、過去体験記憶や未来体験予想らも、「共に在るにあたって応答し合う」。
  • 補足2〉みなさんは、松の木に歩み寄られるとき、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などや、過去体験記憶、未来体験予想らが、いまこの瞬間まで「どのように応答し合いながら共に在ったか」、またいまこの瞬間から「どのように応答し合いながら共に在るか」、把握に努めながらお歩きになる。
  • 補足3〉みなさんはこうした把握を、ふだん「状況把握」とお呼びになって、あたりまえのように日々いろんな局面で、朝メシまえといった感じでおやりになる*1
つづく


前回(第9回)の記事はこちら。


このシリーズ(全17回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年9月25日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。