(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

記憶と予想次第でいまが変わると実にみなさんよくご存じである

*身体が機械じゃないのは明らかであるが第9回


 最初に予告しておきました2点につき確認が終わりました。みなさんどなたも、「身体の物的部分」で物質的出来事が、「身体の感覚部分の関与のもと起こると、すなわち「身体の物的部分」は機械ではないと実によくご存じです。引きつづき、松の木に歩み寄る例を用いて申しますと、松の木に歩み寄っているあいだ、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などは、「応答し合いながら共に在」ります。


 しかし、「応答し合いながら共に在る」のは、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などだけでしょうか。


 ほかに応答し合うものはないでしょうか。


 これまで、みなさんの耳の穴がタコで塞がるようになるくらい、何度もくり返し申して参りました。松の木に歩み寄るとは、自分が松の木に、先ほどからどのように歩み寄ってきていて、かつ、これからどのように歩み寄っていくか、記憶と予想とを同時にしながら歩くことであると、つまり、松の木に歩み寄るとは、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などが、いまこの瞬間まで「どのように応答し合いながら共に在ったか」、またいまこの瞬間から「どのように応答し合いながら共に在るか」、(過去体験と未来体験の)把握に努めながら歩くことである、と。松の木に歩み寄るときに出てくるこうした過去体験記憶未来体験予想も、松の木や、俺の「身体の物的部分」、俺の「身体の感覚部分」、太陽、雲などと「応答し合いながら共に在る」のではないでしょうか。


 そもそも、松の木に歩み寄っているあいだ、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などが逐一「応答し合いながら共に在るというのは、それら「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などにとって何をすることを意味するでしょうか


 そのように「応答し合いながら共に在る」というのは、それら「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などにとって、「いまこの瞬間をどういった出来事の最中とするか」という問いに一丸となって答えることを意味するのではないでしょうか。


 考えてもみてください。みなさんはどの瞬間もつねに何かの出来事の最中におられます。職場や学校に向かっておられる最中であるとか、本棚に本をとりに向かっておられる最中であるとか、ライスカレーを作っておられる最中であるとか、文章をお読みになっている最中であるとかといったようにです。松の木に歩み寄っているあいだ、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などが、「応答し合いながら共に在るというのは、それら「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などが合わさって、「いまこの瞬間をどういった出来事の最中とするか」という問いに逐一答えることなのではないでしょうか。


「いまこの瞬間を、どういった出来事の最中とするか」というこの問いには、それら「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などのほかに、過去体験記憶未来体験予想も一緒になって答えるものと考えられます。したがって、松の木や、俺の「身体の感覚部分」、「身体の物的部分」、太陽、雲などと「応答し合いながら共に在る」もののなかには、過去体験記憶や未来体験予想も含まれると言えるのではないでしょうか。


 すなわち、「身体の物的部分での物質的出来事は、厳密には、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などや、過去体験記憶未来体験予想らの関与のもと起こると言わなければならないのではないでしょうか*1

つづく


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第1回


第2回


第3回


第4回


第5回


第6回


第7回


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*1:2018年9月24日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。