(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

松の木が、ある問いに答えるものであることを実にみなさんよくご存じである

*身体が機械じゃないのは明らかであるが第4回


 まずみなさん、俺がいまから一本の松の木に歩み寄っていくものとご想像ください。その場合を例に、たしかに俺の「身体の物的部分」で物質的出来事は「身体の感覚部分の関与のもと起こること(「身体の物的部分」は機械ではないこと)、またそのことをみなさん実によくご存じであること、の2点を確認していきます。


 俺が歩み寄るにつれ、松の木は一瞬ごとにその姿を大きくします。松の木の実寸が大きくなっていくと申しているのではありません。実寸は終始変わりません。大きくなっていくのはあくまで姿です。松の木は、俺が近寄るにつれ、その姿を刻一刻と大きくすることで、実寸を終始一定に保つわけです。


 同時に松の木の姿は木目を一瞬ごとにくっきりさせてもいきます。


 このように松の木は、俺の身体がどこにあり、どこを向き、まぶたや首や脚や姿勢がどうあるかで、その姿を変えます。すなわち松の木は、「俺の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えます


 ちなみにいま申しました俺の身体というのは、先に触れましたように、俺の「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とがほぼ同じ場所を占めてひとつになっているもののことを指します(以後も同様です)。


 いま何か特別なことを申し上げているような格好になっているかもしれません。が、もちろん、松の木が、「俺の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるというこのことは何も特別なことではありません。


 みなさんよくご存じのところです。


 松の木に歩み寄るとは、自分が松の木に、先ほどからどのように歩み寄ってきて、これからどのように歩み寄っていくか、記憶と予想を同時にしながら歩くことです。すなわち、松の木が、「俺の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、先ほどから逐一どう答えてきて、これから逐一どう答えていくか、把握に努めながら歩くことです。松の木に歩み寄るとはどうすることかご存じであるみなさんはどなたも、松の木が、「俺の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えることを実はよく知っておられるというわけです*1

つづく


前回(第3回)の記事はこちら。


このシリーズ(全17回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年9月19日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。