(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

身体についてご確認申し上げます(前半)

*身体が機械じゃないのは明らかであるが第1回


 科学が身体に起こる出来事を説明する際には「身体感覚が出てこないと申しました。そもそも「身体感覚」は、みなさんがふだん身体とお思いのもののなかには含まれますが、科学が言う身体のなかには含まれません。科学が言う身体と、ふだんみなさんが身体とお思いのものとは決定的に異なります。


 こういうことです。


 みなさんの「身体感覚」(ちなみに俺の「身体感覚」は現在、頭の頂きから手足の末端までひと連なりになっています)があるのとほぼ同じ場所には、「身体感覚」のほかに何がありますでしょうか。そうです、そこには、みなさんの身体の物的部分(分子のひとかたまりとでも言えばいいでしょうか)があります。もしそこに「身体の物的部分」が無いというかたがいらっしゃいましたら、そのかたはすでに生きておられないか、幽体離脱しておいでの最中と思われます。


 さていま、「身体感覚」と「身体の物的部分」のふたつに言及しました。これからは後者の「身体の物的部分」という呼び名に合わせ、前者の「身体感覚」をも、身体の感覚部分と呼んでいくことにいたします。


 くり返します。みなさんの「身体の感覚部分」があるのとほぼ同じ場所には、みなさんの「身体の物的部分」もあります。それらふたつがほぼ同じ場所を占めてひとつになっているものこそ、ふだんのみなさんにとっての身体です。すなわち、日々みなさんにおなじみの身体には、「身体の感覚部分身体の物的部分」という二部分があります。


 が、それに反して科学は身体のなかに身体の感覚部分を数え入れません。科学は「身体の物的部分」だけをもって身体丸々ひとつとします。


 科学が身体とするこのものを以後、科学の言う身体、とか、科学にとっての身体と呼んだりすることがあると、ここでまずお知り置きください。


 で、科学は身体のうちに「身体の感覚部分」を含まず、たとえば歩くという運動であれば、こういったふうに説明します。


 みなさんのが、眼球と視神経をとおってやってきた電気信号から、外界の様子を解析し、その結果にもとづいて、みなさんの眼球や手足の今後の位置取りについて青写真を描いては、神経を介し眼球や手足の筋肉に運動指令を送って、その青写真どおりに伸縮させるのだ、と。


 脳が、外部から入ってきた視覚情報を解析し、眼球や手足といった分子のひとかたまりをコントロールすると説くわけです。


 歩くという運動についてのこうした説明に出てくるのは、「身体の物的部分」だけです。眼球から視神経を経て脳に至る視覚情報伝達と、逆に脳から神経を経て筋肉に至る運動指令伝達が語られるのみです。もしそれ以外に説明で触れられるものがあるとしても、それは、「身体の物的部分」外からやってきて、「身体の物的部分」表面に接するか、もしくは内部にまで入ってくるかする物質だけです。その説明のどこにも身体の感覚部分は出てきません(こうした身体説明には「身体の感覚部分」以外にもぬけているものがありますが、先にも申したとおり今回は、それについては触れないで話を進めます)。


 科学はこのように、「身体の物的部分」での物質的出来事を、「身体の感覚部分」の関与無く起こるとします。すなわち「身体の物的部分」を、掃除機や時計と同じ機械であるとします。「身体の物的部分」を機械とするこうした見方を以後、身体機械論と呼んで参ります。

つづく


前回(序)の記事はこちら。


このシリーズ(全17回)の記事一覧はこちら。