(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

医療処置は快さや苦しさを考えてするものか、正常異常を考えてするものか

*治療の苦しみに耐えれば耐えるほど失敗に近づく第3回


 こういうことを確認しました。


 息がしにくいという状態から、息がしやすいという状態になることを目的とする医療処置を受け、実際に息がしやすくはなるものの、息がしにくいというのとは別のあらたな苦しみをこうむるのだとすると、その医療処置は、息がしにくいという苦しみを別の苦しみに交換するものと見なすことができる(苦しみの交換説)。したがって、あらたにこうむる苦しみが、息がしにくいという当初の苦しみより深刻にならないかどうか、苦しみを比較考量する必要がある。あらたにこうむる苦しみが深刻なものになればなるほど、当の医療処置を受けて得られる純粋な利益は減っていくわけだし、その苦しみがついに息がしにくいという当初の苦しみを上回れば、その医療処置は、三重の損をこうむるだけの失敗にすらなる、と。


 しかしもし快さや苦しさが何を意味するのかよくわからなければ、医療処置はどうなるでしょうか。


 ここでみなさん、快さや苦しさが何を意味するのかよくわからず、身体が正常な状態にあるかそれとも異常な状態にあるかといった区別しか考えられなくなる場合をご想像ください。その場合、息がしにくいというのは苦しい状態としてではなく、身体が異常である状態と解されることになります。医療処置にて息がしやすくなることを目的にするというのは、息がしにくいという身体の異常状態を、息がしやすいという身体の正常状態に「治す」ことと考えられるようになります。そして、当の医療処置を受け、息がしにくいというのとは別の苦しさをあらたにこうむることになっても、息がしやすいという正常状態になりさえすれば、当の医療処置は成功とすることになります。医療処置を受けてあらたにこうむる苦しみについては、息がしやすいという正常状態になるためにガマンすべきものと見ることになります。


 けれども先に確認しましたように、息がしやすいという状態になりさえすれば、当の医療処置を成功と見て手放しで喜べるというのでは決してありませんでした。


 当の医療処置を受けてあらたにこうむる苦しみが深刻なものになればなるほど、当の医療処置を受けて得られる純粋利益は減っていきました。医療処置を受けてあらたにこうむる苦しみが、当初の息がしにくいという苦しみを上回れば、医療処置は成功どころか、三重の損をするだけの失敗となりました。医療処置をするときには、当初の息がしにくいという苦しみと、当の医療処置を受けてあらたにこうむる苦しみの両方を比較考量する必要がありました。いわば、事業をするときに、収益と必要経費の両方を比較考量するのと同じです。息がしやすいという状態になりさえすればいいと考えて医療処置をするのは、必要経費には配慮せず、収益のことしか考えないで事業をするようなまったくの暴挙です。危なくて仕方ありません。


 このように、快さや苦しさが何を意味するのかわからなくなるというのは超マジやべぇことです。


 が、現に悲劇は起こってきたように思われます。


 科学がやりますように、事のはじめに存在同士のつながりを切断してから研究をはじめますと、快さや苦しさは忽然として何を意味するのかよくわからなくなります(後日ご説明します)。で、快さや苦しさの代わりに、身体(や精神)が正常な状態にあるか異常な状態にあるかといった区別を考えるようになります。正常異常という区別を考えるほうが、快さや苦しさを気にかけるより、「客観的」で正しいと思い込むようになります。果ては、異常を正常にするために、快さを犠牲にしたり、苦しさを増進させたり、当事者を殺戮しようとしたりするようになります。


 俺は問います。


 科学はこれまで、ひとの快さや苦しさにたいし、十分配慮してこれたでしょうか。


 この夜空のムコウにはいったいどんな明日が待っているのでしょうか。*1

(了)


前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。


この世に異常なものはありません。正常異常を言うことは差別になります。そのことを以下で確認しています。

 

*1:内容はそのままに表現を一部修正しました。2018年8月29日記す。