(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

にぎり飯のことなんてすっかり忘れ、あたらしい視覚論をとっつかまえるのに夢中になろう

*あたらしい知覚論をください第6回


 俺が歩み寄るにつれ、松の木は、刻一刻と姿を大きくし、かつ木目をくっきりさせていく。太陽が雲に隠れれば薄暗い姿を呈するし、雲間から太陽が顔を出せば一転、明るい姿を呈しもする。また俺が道のくぼみに足を踏み入れて足首をひどくひねれば、松の木の姿も激しく上下左右にぶれるし、そよ風が吹けば枝葉をそよがせ、強風が駆け抜ければ幹ごと激しく身をゆすってもみせる。このように、松の木に歩み寄っているあいだ(だけには限られないが)、松の木は、俺の身体、空、太陽、雲、道、風たちと、「応答し合いながら共に在る」。さてここから、早速ではあるが、あたらしい視覚論とは、この松の木の姿を用いれば、こういうものだと言える。すなわち、あたらしい視覚論とは、松の木が、くっきりと見える姿、もしくはおぼろな姿、あるいは明るい姿、または薄黒い姿を呈するのは、当の松の木が、俺の身体、空、太陽、雲、道、風たちと「どのように応答し合いながら共に在った結果か、その経緯を把握しようとするものである、と。


 だが、極度に神経質な俺はまだこれをもっと細かく言いたくて言いたくて仕方がない。そこで身体について簡単に確認してみることにする。


 身体とは何か。


 俺の身体感覚(頭の頂きから手足の先までひと連なりになっている)があるのとほぼ同じ場所には、俺の身体の物的部分とでも呼ぶべきものもある。みなさんの身体感覚があるのとほぼ同じ場所には、みなさんの「身体の物的部分」とでも言うべきものもある。いま身体について、ほぼ同じ場所を占めている、身体感覚と「身体の物的部分」というふたつをあげた。後者の「身体の物的部分」という呼び名にあわせて、前者の身体感覚をも、身体の感覚部分と呼ぶことにすれば、「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とはほぼ同じ場所を占めてひとつになっていて、このひとつになっているものこそ身体だと言えるだろう。


 もう一度くり返す。俺の身体とは、俺の「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とが、ほぼ同じ場所を占めてひとつになっているもののことである。したがって、俺が追い求めているあらたしい視覚論とは、引きつづき、松の木に歩み寄る例を用いるなら、こう言える。すなわち、そのあたらしい視覚論とは、松の木が、くっきりと見える姿、もしくはおぼろな姿、あるいは明るい姿、または薄黒い姿を呈するのは、当の松の木が、俺の身体の感覚部分」、「身体の物的部分」、空、太陽、雲、道、風たちと、「どのように応答し合いながら共に在った」結果か、その経緯を把握しようとするものである、と。


 しかし、俺の「身体の物的部分」と書いたところをまだもっと細かく言いたくて仕方がない俺がいる。そこでさらにこんなふうに言ってみる。


 松の木が、くっきりと見える姿、もしくはおぼろな姿、あるいは明るい姿、または薄黒い姿を呈するのは、当の松の木が、俺の「身体の感覚部分」、神経血液血管筋肉その他の身体の物的部分」、空、太陽、雲、道、風たちと、「どのように応答し合いながら共に在った」結果か、その経緯を把握しようとするのが、あたらしい視覚論である、と。


 確認してきたように、松の木を見るとは脳が、俺の前方数十メートルの場所に実在する「ほんとうの松の木のコピー像を、目玉からやってきた視覚情報をもとに俺の心のなかに作りだすことでは決してない。脳がそうした「ほんとうの松の木」のコピー像を俺の心のなかに作る際、ほんとうは当の松の木には属していない、容姿(色を含む)をそのコピー像につけ加えるというのでは決してない。松の木の姿は、脳によって俺の心のなかに作られる映像なんかではなく、実際のところ、俺の前方数十メートルのところにありその姿と脳は、「応答し合いながら共に在るもの同士のうちのふたつにすぎない*1

つづく


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第1回


第2回


第3回


第4回


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*1:2018年10月13日に、内容はそのままで表現一部修正しました。