(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

一緒に超絶手品を見ませんかとお誘い申し上げるの巻

デカルトの超絶手品ぁ〜ニャで科学は基礎を形作る第1回


 先日、「科学は存在同士のつながりを切断してから考える」と題した文章*1で、科学が事のはじめになす、存在同士のつながりの切断をふたつ見ました。そこで、それらふたつをそれぞれ、絵の存在否定*2存在の客観化*3と呼びました。


 不肖俺の考えでは、このふたつは科学がそのうえによって立つ土台です。科学が人間なら、その右足と左足、もしくは車いすの両輪と言えます。それくらい科学にとって大事なこのふたつを、人類史上、いちはやくやってみせたのは、俺が思いますに、科学の大先駆者にして大哲学者のデカルトです。

方法序説 (岩波文庫)

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省察 (ちくま学芸文庫)

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哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

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 けれども残念ながら、冒頭で名をあげました文章では、その彼がいかにして「絵の存在否定」をやってのけたかについては確認できましたが(「われ思う、ゆえにわれ在り」です)、「存在の客観化をどのようにやってみせたのかについては触れられませんでした。今日は、触れられずに終わったそのところをぜひとも見ておきたいと思い、筆(筆!!)をとった次第です。要するに、先日書きました文章をここで補足しようというわけです


 デカルトが自らの著書で実演してみせた、「絵の存在否定」と「存在の客観化」を目の当たりにした同時代人たちは、超絶手品を目にした観客もカクやあらむ、目をヒン剥いて驚いたろうと俺は想像します。しかし目をヒン剥いて驚いたのは彼ら同時代人だけでしょうか。いや、そうではありますまい。同時代人の目ダマがそのようにヒン剥かれて以来、現在に至るまで、これらふたつの作業の前でかず多くの目ダマが燦然とヒン剥かれ続けてきたのではないでしょうか。


 思い出します。


 デカルトが彼の著書のなかで「存在の客観化」(「絵の存在否定」もですが)をやってのける姿を最初に目の当たりにしたときの俺といったら、ありませんでした。あまりの不思議さにおのずとムキ出しになる目ダマをもとに戻そうと、しきりに目をパチクりさせ、しばらくのあいだ、口を閉じられないでいたほどです。紙のムコウでデカルトが演ってみせていることが正しいのやら、まちがっているのやらまったくわかりませんでしたし、なぜそんなふうに論理が展開していくのかもチンプンカンプンでした。


 百聞は一見にしかずと申します。どうですか、みなさん。デカルトが誰よりもはやく著書のなかでやってみせた存在の客観化というその超絶手品をこれから一緒に(仲良く)見てみようではありませんか。もちろん、ド天然である俺なんかとは違って、みなさんは腰を抜かされることはさすがにないでしょう。が、少しくらいはびっくりなさるものと予想します。またそう期待もします。

つづく


このシリーズ(全9回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2016年第5作

*2:絵の存在否定にまつわる記事一覧はこちら。

*3:存在の客観化にまつわる記事一覧はこちら。