(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

ガン治療は癒しを目的としていない

*『患者よ、がんと闘うな』の近藤誠さん第7回


 それに比べると、科学のガン治療はどうだろう。科学は、ガンという一箇所をとり除くことにしか配慮しない。この一箇所をなくせるかどうかのみが、ガン治療の成功と失敗の分かれ目である。患者さんのガンという一箇所以外の部分については、どうなればいいとか、どうなってほしいとかといった目標設定をこれといって科学はしない(露骨な言い方をすれば、ガンという一箇所以外の部分がどうなろうが構わないという態度をとる)。ガン摘出手術も抗ガン剤治療も「癒し」を目的とするものではないということである。


 簡単にこのことを確認しておく。


 苦しんでおられる甲さん(53歳)が、膵臓ガンだと診断されたとする。苦しんでおいでのこのかたにとって切実な問題は、苦しいということである。まず必要となるのは、その苦しみが軽減すること、あわよくば快く感じて生活できるようになること、である。この世には、苦しんでおられるかた以上に、「癒し」を必要としておいでのひとはいらっしゃらない。で、もしこのかたに「癒し」を提供したいと思う者があるとすれば、それは、苦しんでおられるこのかたの身体のなかのありよう全体にできる限り配慮しようとする者だろう。つまり「状況把握」に努める者だろう。苦しんでおいでのかたの身体のなか全体が、かつてこのかたが具合良く生活しておられたときのありよう(お手本)に近づいていけばいいと考える者だろう。


 かたや、科学のガン手術は膵臓ごとガンをとり除くことを考える。


 苦しんでおいでのかたの身体のなかは、かつて具合良く生活しておられたときの身体のなかのありよう(お手本)からは、現在、膵臓にガンがあるという点でかけ離れている。ところがガン手術をうけると、膵臓が無くなるというところまで、違いはさらに大きくなる。そのように身体のなかのありようが「お手本」からさらにかけ離れれば、苦しみは軽減するどころか逆に増すだろうと当然考えられることになる。


 このようにガンの臓器摘出手術は「癒し」を目的とするものではない。それどころか、「反・癒し」を実現するものである(とはいえ、「反・癒し」を目的とかかげているというのではない)。


 抗ガン剤はどうか。苦しんでおられる乙さん(43歳)の大腸にガンが見つかった。そこで抗ガン剤治療をすることになった。しかしこのかたの切実な問題もさきほど同様、苦しみである。ところが、抗ガン剤治療をすると、ただでさえ苦しいところ、より苦しくなることがある。より苦しくなるということは、抗ガン剤治療をうけてガンは縮するものの、身体のなか全体は、総合的にみると、かつて具合良く生活していた頃の身体のなかのありよう(お手本)から、さらにかけ離れるということである。そして、そのようにかけ離れればかけ離れるほど、身体のなかが再び、かつて具合良く生活していた頃のありように戻るのはより難しくなると考えられる。


 いや、それどころか、臓器摘出手術もそうだが、死に至る危険がある。そうではないだろうか。苦しいときに、苦しくなるようなことをすると、余計苦しくなる。死に至るかもしれない。これは誰でも知っていることである。苦しいときに苦しくなるようなことをすると苦しみが増して、死んでしまうかもしれないというこのことは、生きものすべてにとっての、黄金の定理である。当たり前すぎるものの、こんなに確実で、非常に役立つ、自分の大切なひとにはつねに留意しておいてもらいたい、大事な法則はほかにないと俺は断言したいほどである。


 科学のガン治療は、この「黄金の定理」を無視するものである。ガン治療はひとを「癒さ」ないどころか、おうおうにしてこのように「反・癒し」を実現する。しかも近藤さんのような第三者に、ガン治療はいくらなんでも「反・癒し」を実現しすぎるのではないかと指摘されるまで、科学には「反・癒し」を実現しているという自覚はなかった。それほどガンという一箇所にしか科学は配慮していなかった(今もそうだろうけれども)。「反・癒し」の現状を目の当たりにしながらも、たんに「ガンはコワイ」と思っていただけなのかもしれない。

つづく


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