(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

一箇所にしか配慮しないで為すガン治療

*『患者よ、がんと闘うな』の近藤誠さん第5回


 ガンという一箇所にしか配慮せずとも、「苦と死という出来事」が必ず起こってくると予想できるのかどうかは、事実観察によって見極めるしかないと、猛毒について触れたところで書いた。そこで、じっさいに事実観察をやってみると、ガンが身体のなかに見つかったひとのなかには、たしかに苦しんですぐにお亡くなりになるかたもいらっしゃるが、身体のなかにガンがあっても大丈夫で、死期がこれといって近づいているようには見えないかたもおいだということになる。ガンという一箇所にさえ配慮していれば、未来がどうなるか予想できるというのではなさそうだということになる。これは、身体のなかのガンという一箇所だけの問題ではなく、身体のなか全体をできるかぎり配慮する「状況把握」が必要な問題ではないかということになる。ガンという一箇所にしか配慮しないのでは、ガンが身体のなかにはあっても大丈夫でいらっしゃるかたのことは説明できない。ガンが見つかってすぐに、苦しんでお亡くなりになるかたと、ガンがあっても大丈夫で普段どおり生きておいでになるかたの両方を説明するには、そのかたたちの身体のなかのガン以外の部分をも、できるかぎり広く考慮にいれる必要があるということになるのである。


 以上、ガンという一箇所にしか配慮せずに、「苦と死という出来事」が必ず近いうちに起こってくると決めつける科学に、近藤さんが疑念を呈するのはごくごく当然であるということを確認した。


 つぎの論点に移る。ガン手術や、抗ガン剤治療にたいする、近藤さんの疑念について考察する。


 科学にとって、治療とはガンという一箇所をとり除くことである。ガンさえ手術でとり除ければ、あるいは抗ガン剤でガンを無くすことさえできれば、治療は成功である。そこで、なぜガンをとり除けばいいのかと科学に問うと、ガンは「苦と死という出来事を(どんな場合でも)引き起こす一箇所」であるから、という答えが返ってくるだろう。けれどもガンは「苦と死という出来事を、(どんな場合でも)引き起こす一箇所」ではないと先ほど確認した。苦と死をそのように一箇所のせいにするわけにはいかない。


 したがって、「苦と死という出来事」をガンという一箇所のせいにし、その一箇所さえとり除けば「苦と死という出来事」は起こってこなくなると、単純に考えることはもはやできない。ガンという一箇所をとり除くことを治療と考えるには、あらたな理由を示さなければならないことになる(おそらく、ガンの転移予防になるというのがその理由として提示されることになるのだろうけれども)。


 が、ここでは、なぜ、ガンをとり除くといいのか、については考えない。ガンという一箇所を身体のなかから無くすことが何かひとのためになると仮定して話を進めることにする。そして、ガンという一箇所にしか配慮しない施術では何が起こるのかを考える。


 科学は、ガンを、「どんな場合でも、苦と死という出来事を引き起こす一箇所」と認定する。そのように、ガンという一箇所さえあれば、「苦と死という出来事」が必ず起こってくるとする。そして、ガンという一箇所さえとり除ければ、ひとを、さしせまったその「苦と死」から救えるとする。で、ガンという一箇所をとり除くために手術で臓器ごと摘出したり、苦しみの多い抗ガン剤治療でガンの無消を狙ったりする。その結果、ガンをとりきれたり、ガンが無くなったりすると、科学の考えでは、治療は成功したことになる。極端なことを言うと、患者さんが臓器摘出手術や抗ガン剤治療をうけてお亡くなりになっても、ガンさえキレイにとり除けたなら、治療は大成功ということになる。


 出来事を把握(予想)するときと同じく、ガン治療で配慮するのも、ガンという一箇所だけである。臓器ごとガンをとり除いたり、抗ガン剤をやったりすると、ガン以外の身体の部分で何が起こるのかといったことに科学は配慮しない。驚くべきことに、臓器をとりすぎたり、苦しい抗ガン剤治療をやりすぎたりして、患者さんが不要な苦しみを覚えることになっていても、近藤さんのような第三者に指摘されるまでそのことに気づかないほど、ガンという一箇所にしか配慮しない。


 出来事を一箇所のせいにする見方のなによりも恐ろしいところは、このように、治療をさえ、一箇所にしか配慮しないでなすことである。つまり、身体のなかの当の一箇所以外がどうなるかには配慮しない治療をすることである。

つづく


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