(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学の出来事観と物質観の変遷②

 さてこれでまず、原因とは何か、が明らかになった。


 肺にがん細胞ができるという出来事の原因とは、肺にガン細胞ができるという出来事を、どんな場合でも引き起こす一箇所のことである。うつ病と呼ばれる状態になるという出来事の原因とは、うつ病と呼ばれる状態になるという出来事を、どんな場合でも引き起こす一箇所のことである。


 出来事の原因とは、「当の出来事を、どんな場合でも引き起こす一箇所」のことである。


 科学は物理学をやっているときは、さきほど書いたように、出来事というものを、当の出来事に登場するすべての存在が、直接的あるいは間接的に作用して共に為す仕事と考える。そのために、この出来事に登場するすべての存在それぞれの事情をできるかぎり配慮しようとする。そのことを俺たちは、9番ボールがコーナーポケットに落ちるという出来事を例に、確認した。ところが、生きものを扱う段になると科学はいきなり、そういった出来事観をかなぐり捨てる。そして、出来事は、「当の出来事をどんな場合でも引き起こす一箇所」、すなわち原因によって生じさせられるのだとするあらたな出来事観をとるようになる。「当の出来事をどんな場合でも引き起こすそうした一箇所」が存在するという根拠がどこかにあったというのではないけれども、そういった一箇所が存在するにちがいないとなぜか急に確信するようになり、さがし求めるようになる。


 こうして、原因の追求というあらたな冒険ロマンがはじまりを告げることになる。


 ガン細胞ができるという出来事を解明するためにと言い、科学は、「ガン細胞ができるという出来事をどんな場合でも引き起こす一箇所」(変異遺伝子)が存在すると、事のはじめに決めつけて、さがし求めることになった(マサチューセッツ工科大学ワインバーグ教授はガンの解明に関して敗北宣言をお出しになったらしいが*1。また統合失調症を解明するためにと言って、「統合失調症という出来事をどんな場合でも引き起こす一箇所」(ウィルスまたは脳の変質あるいは変異遺伝子)が存在すると、これまた事のはじめに決めつけて、さがし求めることにもなった。

科学の終焉(おわり) (Naturaーeye science)

科学の終焉(おわり) (Naturaーeye science)

 
統合失調症 (PHP新書)

統合失調症 (PHP新書)

 


 さらに追求の手は別のほうにも伸びた。


 科学は物理学をやるときと、生きものを扱うときとでは、いま言ったように出来事観が異なる。これはもっと突きつめて言うと、物理学をやるときと、生きものを扱うときとでは、物質観が異なるということである。


 物理学では、何度も申し上げて恐縮であるが、存在ひとつひとつに、力が複数ずつかかっているものと想定する。いっぽう、生きものを扱うときの科学は物質Xを、「どんな場合でも出来事Xを引き起こす一箇所」と見、物質Yについては、「どんな場合でも出来事Yを引き起こす一箇所」と見るといったように、各物質を、「どんな場合にも同じ出来事を引き起こす一箇所」とする。


 物質それぞれがどんな場合にも引き起こす「同じ出来事」を突きとめようとすることにもなったわけである。


 たとえば科学は、コーヒーや緑茶やタバコといった物質それぞれを、「どんな場合でも同じ出来事を引き起こす一箇所」と事のはじめに決めつけ、そのそれぞれがどんな場合にも引き起こす出来事を特定しようと、統計調査をやっている(摂取量によって、引き起こされる出来事が異なるとはしているが*2)。コーヒーや緑茶やタバコを口にしても、そのときどきで効果が変わるかもしれないとはすることなく、統計から、コーヒーや緑茶やタバコが、どんな場合でも引き起こすのはどんな出来事かを知ろうと計算をしている。


 しかし、先ほども申し上げたように、「同じ出来事をどんな場合でも引き起こす一箇所」(原因)がそもそもこの世に存在するという確証はどこにもない。何の確証もないが、なぜか生きものを扱う段になって、科学は急に、そうした一箇所が存在すると前提にしはじめた。物理学をやっているときには、そんな一箇所の存在は想像されてもいなかったし、仮にそうした一箇所を出来事の説明にもちだしていたとしも、説明に失敗し、現実から置いてきぼりを食らうことになっていたに違いないにもかかわらず、である。


 その物理学の考え方にならえば、こういうことになる。


 すなわち、昆虫や動物について詳しいことは知らないが、少なくともひと同士について言えるのは、いくらよく似ているように思われても、互いにかならず違いをもつということである。で、似ているひと同士の間にこのように違いがあると、身体のなかに同じ物質が入ってきても、たがいの身体のなかではそれぞれ違った出来事が起こるかもしれないということになる。もしAさんとBさんの身体のなかがまったく違わないのなら、身体のなかにそれぞれ同じ物質が入ってくれば、AさんとBさん両方に同じ出来事が起こることになるだろうと推測できる。したがって、両者に起こったその出来事を、身体のなかに入ってきたその物質一箇所だけのせいにし、その一箇所だけにこだわっても得るところがあるかもしれないということになる。ところが、じっさいはどんなにそっくりなひと同士の間にも違いがある。同じ物質が身体のなかに入ってきても、たがいに同じ出来事が起こることになるとは断言できないわけである。


ひとつまえの記事(①)はこちら。


このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:長田美穂さん「がんの特効薬が見つからない本当の理由/『がんが自然に治る生き方』翻訳者のレポート(4)」PRESIDENT Online スペシャ

*2:「コーヒーで『死亡率下がる』『がんになりやすい』 どっちが正しいの?」THE PAGE