*原因をさがし求めて第1回
先日ふとしたときに私、カワグチのもとへ、あるひとつの疑問がまざまざとよみがえってきた。20歳代の10年間、ずっと不思議に思っていた疑問だった。とうとう青春をとり逃がしてしまうことになったくらい、当時の私はその疑問に釘づけで、何をするにもウワの空になっていた。
その疑問が私のもとに返り咲いたのは、ある疫学者の本を読んでいたときのことである。タバコが肺がんの原因であるという厳然たる事実を、日本の法廷、医師、法学者は受けいれようとしないといった旨のことがそこには書いてあった。タバコが肺がんの原因であることはデータからすればもはや明白であるにもかかわらず、彼らはこういう理屈を口にするのだと著者は非難していた。すなわち、データから、タバコと病気のあいだに「一般的」な関係を見てとることはできるが、各「個人」において当の病気を発症させたのがタバコなのかどうかはデータからは判別できないのだ、と。
これは、不当な嫌がらせを学校で受けていた子供が自殺したときに、よく責任者が言うのと同じ理屈だと、私は読みながら考えていた。
たしかにイジメはあった。イジメが自殺の原因になることはある。しかしこの自殺の原因がイジメであるとは断定できない。
まさにそう考えていたときである、すでに抜け殻となった私のひからびた胸のなかに、昔の疑問が数十年ぶりによみがえってきたのは。
するとどうだろう、あとはこのままくたばるのを待つだけだった、クソみたいな私の乾いた胸のなかになにかが灯って、少しずつ熱をおび始めたのである。
事故が起こったり病気になったりすると、私たちは原因を特定しようとする。その原因特定には方法というものがあるはずである。私がいま言っている疑問はその方法に関するものである。私たちはいろんな事故や病気の原因を特定してきたことになっている。
しかし、私たちが用いてきた原因特定法はほんとうに正しいものだったのだろうか。
もし、用いてきた原因特定法にあやまりがあったらどうなるのか。
あやまった原因特定法で果して原因を見つけることはできるのだろうか。
原因特定法について、私がいま言ってるような疑問を呈したひとが他にいるのかどうか、私はなんら知らない。恐らくそんなひとはいなかったのだろう。だが私はイカれてはいない。みなさんはこのあと、人並みくらいにはまっとうな言葉が私から発せられるのを聞くことになるはずである。
たしかに、私がこだわっているそうした疑問はくだらないし、意味もないと、あざ笑うひともいるだろう。
けれども私にも、さいごのさいごであだ花くらいなら咲かせられるかもしれないと思っている。
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