(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

ポール・オースター『孤独の発明』

『孤独の発明』はポール・オースターの、初めて出版された小説であるらしい。1982年初版ということは、彼が35歳くらいの時の出版である。


 小説冒頭、彼の父親が亡くなったことから話ははじまる。「父の死を知らされたのは三週間前のことだった」(同書、柴田元幸訳、新潮社、1991年、8頁)。二部構成になっていて、第一部「見えない人間の肖像」でオースターは生前の父をふりかえるのである。


 第一部で彼はずっと彼の父親について語っている。あるいは父親の出自について語っている。けれども、父との思い出をつづっているのではないような気が私にはする。かつて筆者が体験した、父との各場面を展開しているのではない。


 では、彼の父親の人となりを描いているのかといえば、そうでもないように思われる。読者はこの小説を読みすすめていっても、なかなか彼の父親について明確なイメージをつかめるようにはならないのではないだろうか(それともアメリカ人をある程度よく知っている人が読めば、だいたいオースターの父親がどんなひとなのかピンとくるのだろうか?)。


 第一部でオースターは父親のイメージを模索しているのではないだろうか。父親がどんなひとだったのか知ろうとして、自分が父親についてどう感じていたか、どう感じているのか、この第一部で彼は自分自身にきいているのではないだろうか。


 父は生きていた。もう生きていない。思い出せ。そうオースターは自分自身に言いきかせているのではないか。父親の死のあと、父親の存在がオースターの気持ちからも完全に遠く去ってしまう日が近いうちに来るだろう。記憶が決定的にうすれ、気持ちが完全に離れてしまってとりかえしがつかなくなる前に、思い出さなければならないのだ。でも、なぜ?

 
 彼は父の死後、ひとり部屋にこもって書くという孤独のなかで、自分にとっての父親の存在の意味をつかもうとしているのではないか。父親が生きているときにはそれを彼はつかめなかったのだ。父親は縁遠い存在だったのだ。


 彼はヨナ書についていくども語る。ヨナは神の命令からのがれようと逃走し、鯨に飲みこまれてしまう。が、その腹のなかで、彼は神への信仰をみいだすことになる。鯨の腹のなかのヨナのようにオースターは荒涼とした部屋にこもって、鯨の腹のなかで「神」に祈るヨナのようにオースターは父親について書く。そうしてオースターが見出そうとするのは「父」ではないのか。


 第二部は「記憶の書」である。もし第一部で父親との関係を模索していたとするなら、それは父親のイメージの模索だけでは終わらないだろう。関係のもう一端である「自分自身」についても問いなおすことになるのではないだろうか。自分は生きていた。その生活は二度とないだろう。思い出せ。


 ヨナは神の命令を遂行したあと、「生きているより死んだ方がましだ」と二度、神にうったえた。彼には世界の「意味」が見えなくなっていた。


 荒涼とした部屋で自らのこれまでを振り返って書くという孤独のなか、オースターは世界の「意味」を、つまり自分自身の「未来」を見出そうとしているのではないだろうか。

孤独の発明 (新潮文庫)

孤独の発明 (新潮文庫)

 
(了)