(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

木田元『ハイデガー拾い読み』③

②のつづき

本質存在と事実存在

 今、二つの例をあげた際、同じもの複数について、一つの同じ根源が想定されていると書いた(同じものは一つの同じ根源からやって来るという考え方がどうやら西洋にはあるようで、その考え方を私は個人的に「同一起源説」と呼んでいる)。その根源を「姿形の見えない一つの何か」というふうに先ほどから呼んでいる。この「姿形の見えない一つの何か」(イデア、或いはエイドス)が、原因によってこの世に「発現」させられるのだった。木田さんによると、この「姿形の見えない一つの何か」を、ハイデガーは「本質存在」とか〈イデアとしての現前性〉と呼び、一方、この姿形の見えない一つの何かの「発現した姿」を、「事実存在」あるいは〈エネルゲイアとしての現前性〉と呼んでいたそうである。ところでプラトンはこの二つのうち、前者の〈イデアとしての現前性〉こそが存在であって、〈エネルゲイアとしての現前性〉はそれに劣るのだと考えた。そして、こういう優劣の付け方をアリストテレスは批判した。

 だが、そのアリストテレスにも限界があった。〈エネルゲイアとしての現前性〉を〈イデアとしての現前性〉に優越させようとし、事実存在の優劣を逆転させようとする以上、アリストテレスはやはり〈本質存在〉と〈事実存在〉の区別を前提にしていたことになる。だが、ハイデガーに言わせると、ここで必要なのは、本質存在と事実存在の優劣関係を逆転させることではなく、むしろ〈存在〉のこうした二義的区別の本質根拠を明らかにし、〈存在〉に始原の単純性を返してやることなのである*1


 では、存在に単純性を返してやるとはどういうことなのか。それは「おそらく〈存在=生成〉と見る(つまり〈ある〉ことを〈なる〉ことと見る)」(同書140頁)こととしか思われないと木田さんは言う。存在(自然)を「作られてある」ものとしてではなく、「なる」ものと捉えるということである。つまり自然は、原因というものに「律せられてある」のではなく、自らを「律してある」ものだということなのである。


 しかしこのことについてはもっと詳しい説明が必要なのではないだろうか? 


 もしその詳しい説明がなされれば、同時に世界内存在と外界の存在証明の問題とがとりあげられることになるだろう。


 けれども、そこまではハイデガーの仕事の範疇に入らないようである。とにかく、「なる」ものとして自然を捉えるとは、状況把握をすることであるとだけ、今のところは言っておこう。


 見てきたように、彼の批判に従うと、(現代)医療などは全否定を受けることになる。しかし、思わしくない出来事があると、その原因を特定しようとし、その出来事をすべてその原因だけのせいにして、この原因を取り除けば問題が解決するとしているのは、がん医療や免疫学などに限られない。法律もまた自殺の原因や事故の原因などを想定しているのである。


 ハイデガーは嫌なヤツだっただろう。ナチスへの加担について彼は言い逃れできないだろう。けれども、同時に彼はどの学者よりも誠実だったに違いない。学者のほとんどは、相手が宿敵でないかぎり、学問的権威の言うことはうのみにしてきたようにハイデガーには思われただろう。哲学はプラトンの注釈にすぎないと言われるし(ホワイトヘッドの言であるそうだ)、「哲学の歴史全体を通じて、プラトンの思考が形を変えながら支配しつづけている」とハイデガー自身も『思索という事象へ』で言っているそうである(木田前掲書、163頁)。科学もいま確認したように、プラトンである(アリストテレスであると言ったほうが良いかもしれないが)。他の学者は学問的権威を疑わなかったのか。なぜ疑わなかったのか。彼らも疑っただろう。しかし、ハイデガーには、つまらないケチをつけたくらいにしか見えなかっただろう。彼には、気の良い人間というのはそのように、学問的権威の見解を喜んで聞き、すすんでうのみにし、自分を飾るために自分のものにしようとする者だと思われたのではないだろうか。きわめて不誠実に見えたのだろう。


 誠実であったに違いないと書いたが、何も、罪をおかすものが悪人であるとは限らないのである。

(了)


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①はこちら。

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②はこちら。

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*1:木田元ハイデガー拾い読み』新潮社、2012年、235頁、2004年

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)