(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

木田元『ハイデガー拾い読み』①

ハイデガーは嫌なヤツである

 ハイデガーが「ハイデガー」であるためには、ハイデガーはぜひとも嫌なヤツでなければならなかった。まったく、嫌なヤツでなければならなかったに違いないのである。それも超ド級の。

 しかし、これだけ永くつきあってきながら、私はいまだにこの哲学者に対してアンビヴァレントな気持ちをもちつづけている。この人の著書や講義録は、読めば読むほどすごいと思い、嘆賞を禁じえないのだが、この人の人柄はどうしても好きになれないのだ。この二十年ほどのあいだに、この哲学者についての評伝のたぐいもずいぶん書かれてきたが、そうしたものを読んでその人柄を知れば知るほど、私はこの人が嫌いになる。(略)


(上略)ハイデガーの伝記的事実が明らかになり、たとえば彼が本気でナチスに加担したらしいとか、その時代に親しい知人たちをナチスに密告するような卑劣なふるまいをしたらしいといったことが分かってくると、すっかり困ってしまう*1


 まさにハイデガーはそれくらい底意地の悪い男であるはずなのである。ハイデガーというと一般には『存在と時間』ばかりとりあげられがちだが、木田さんの導きに従って、ハイデガーの講義録の内容を知ってみると、彼が底意地の悪い男であったことが当然であるように思われてくるのである。

 だが、それでは、お前がそれほど言うハイデガーの著作や講義録のすごさ、面白さはいったいどこなのだと詰問されそうである。これについては自分でも時どき考えることがあるが、これにはいくつかの答えが考えられる。


 一つはその構想の雄大さである。これはおそらくニーチェの強い影響だと思うが、なにしろハイデガーは〈西洋〉と呼ばれる文化圏の二千五百年にも及ぶ文化形成の歴史をふりかえり、それを根本から批判しようと企てるのである。その発想の壮大さには驚嘆させられる*2


「〈西洋〉と呼ばれる文化圏の二千五百年にも及ぶ文化形成の歴史をふりかえり、それを根本から批判しようと企てる」ような大それたことは、超ド級の嫌なヤツでなければ思いつかないだろうし、そうした者でなければ、このような転覆行為を企てようとはしないに決まっているのである。


 けれども、まだ高をくくっている人がいるかもしれない。


 ハイデガーが二千五百年の西洋文化を根底からくつがえそうとしていたといっても、それはせいぜいヨーロッパやアメリカという遠い地域の話しであって、くつがえそうとしていたものも、人間の日常生活にはどうだっていい、ものの考え方、すなわち「象牙の塔」のなかでのみとり沙汰される、細かな哲学的問題か何かにすぎなかったに違いないと思う、そんな人がいるかもしれない。


 しかしハイデガーが扱ったのはそのような瑣末な問題ではなく、言ってみれば、私たちの日常だった。彼が批判したのは、長らく私たちがあたりまえと思って普段採用している、ものの捉え方である。私たちが日常で未来を予想するときに、当然と思ってやっている、予想の仕方が根本的に間違っていると彼は断じたのである。


 未来予想の仕方が間違っていれば、予想した未来が見当違いということになる。今、自分が前提にしているその未来が見当違いということになれば、今げんに自分がやっていることもまた無意味になってしまう。


 彼のその批判が正しければ、私たちの夢は実現せず、輝かしい未来のためにこれまではらってきた努力や投資も全く無駄であることになるのである。


 いや、私の夢だけは、そして私の努力と投資だけはとお思いの方もまだいるかもしれないが。

 

*1:木田元ハイデガー拾い読み』新潮文庫、2012年、12〜13頁、2004年

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)

ハイデガー拾い読み (新潮文庫)

 

*2:同書14頁