(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

存在の客観化

ミツロウが見せた激やせがナゾすぎるの巻

*デカルトの超絶手品ぁ〜ニャで科学は基礎を形作る第3回 しかしなぜ彼はこのように、存在から、当の存在にほんとうは属していないものとして、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、を取り除くことができたのでしょう。そしてそのあとに残ったものこそほ…

デカルトが紙のムコウで超絶手品を実演してくれるの巻

*デカルトの超絶手品ぁ〜ニャで科学は基礎を形作る第2回 さっそく彼の出演する『省察』という著書を開けてみましょう。第二省察をご覧ください。ほら、紙のムコウにデカルトが立っています。いまから俺たちの前で「存在の客観化」をやってのけようと俺たち…

一緒に超絶手品を見ませんかとお誘い申し上げるの巻

*デカルトの超絶手品ぁ〜ニャで科学は基礎を形作る第1回 先日、「科学は存在同士のつながりを切断してから考える」と題した文章*1で、科学が事のはじめになす、存在同士のつながりの切断をふたつ見ました。そこで、それらふたつをそれぞれ、絵の存在否定*2…

科学とは現実を大改造する営みである

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第17回 ここまで、科学が「絵の存在否定」と「存在の客観化」という一連の作業によって存在同士のつながりを切断し、「身体の感覚部分」を身体や世界から除外したり、存在から容姿(色を含む)、音、匂い、味…

ぬぁ、なんと、「絵の存在否定」と「存在の客観化」は切り離せない一連の作業だった???

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第16回 存在は実際のところ「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである。部屋のとびらは、私が歩み寄れば刻一刻とその姿を大きくするし、部屋の明かりが明滅すれば、それに…

なぜ科学は存在から、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触をとり去っちゃう?

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第15回 科学は事のはじめに存在同士のつながりをふたつ切断する。そのうちのひとつである「絵の存在否定」を先に見、いまは残りのひとつである「客観化」について見ている。 存在は実際のところ、「他と共に…

数学万能、ビバ、マセマティックス、ビバビバ

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第14回 科学が存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものへすり替えるために、存在の実際の姿から、容姿(色を含む)、音、匂い、味、…

音から音をとり除くと、空気や液体の振動があとに残ると?!

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第13回 存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものにすり替えるために、科学が存在の実際の姿から、ほんとうは当の存在には属していな…

ピンク色の服のピンク色は心のなかにあるとする、すなわち科学は存在から色を取り除く

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第12回 先ほど、存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものにすり替えるために、科学が存在の実際の姿から、存在の容姿を、ほんとうは…

違いを「ジャマだ、ジャマだ」と、存在から取り除いて意識内にうち捨てる

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第11回 科学が自らの思うところに合うよう現実を修正するこの解釈操作では、存在が「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えて実際に呈する姿のうちから、存在をただ無応答で在るだけ…

理論にあうよう現実を修正するのが常套手段であることに留意しておいたほうがいいようだ

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第10回 では、存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものへすり替えるこの「客観化」で存在同士のつながりを切断すると、いったい何が…

科学は存在を客観的なものに読み替えることで、存在同士のつながりを切断する

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第9回 しかし科学は存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものとは考えない。 先ほど、私が部屋のとびらに歩み寄る例をあげ、そのとびらが「私の身体と共に在るにあた…

存在は「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第8回 ここまで、存在同士のあいだの「ひとつの絵に共に参加している」というつながりを切断する「絵の存在否定」を見てきた。 確認したのは次の三つである。 科学はその「絵の存在否定」を身体に施し、みな…

神の存在証明にもとづくデカルトの知覚論に科学は乗って

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第7回 いまこの一瞬に私が目の当たりにしている空の姿と、この一瞬の私の「身体の感覚部分」とを、それぞれがその瞬間に在る場所に在るのは認めるものの、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士とは…

デカルトと科学は「絵の存在否定」から誕生した

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第6回 私がいま空の姿を目の当たりにしているとすると、その姿と、いまこの一瞬の私の「身体の感覚部分」とは、「ひとつの世界絵に共に参加している」と言える。が、それらふたつを、それぞれが現に在る場所…

みなさんの心とその中身の存在しか確実視しない

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第5回 が、私外部(外界)に実在する存在のコピー像を、脳が私内部(意識内)に作ることへと、知覚体験をすり替えると、このような疑いを抱くことになる。 私内部(意識内)に脳によって作られた、映像、音…

みなさんが見ている虹の姿をみなさんの内部に移し替える

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第4回 そして、「絵の存在否定」によって世界からみなさんがたの「身体の感覚部分」が除外されるこのとき、同時に、知覚体験も読み替えられる。 いま前方の光景が私に見えていることから、その光景と、この…

みなさんを世界のなかに入れない

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第3回 科学は「絵の存在否定」によって、「身体の感覚部分」を身体から除外するだけではなく、世界からも除外する。 みなさんがふだん世界と思っておられるもののうちには、みなさんの「身体の物的部分」は…

絵の存在を認めない

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第2回 科学の手にかかると、身体からその一部分である「身体の感覚部分」が除外され、正体不明な意識なるものとされるに至る。 冒頭で科学は存在同士のつながりを切断してから考えると申し上げたように、科…

身体感覚を身体のなかに含めない

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第1回 科学の特徴は、存在同士をたがいに切り離してから考えるところにある。事のはじめに科学は存在同士のあいだの二種類のつながりを切断する。で、そのあとに、新たに考案したつながりで存在同士をつなぎ…

存在が読み替えられていたと判明する

*身体すり替え事件第2回 科学はデカルト哲学以来の趨勢にしたがって、事のはじめに存在を読み替えます。 いま部屋のなかにいらっしゃるみなさんが、外に出ようとして、とびらに向かって歩み寄っておられるものとご想像ください。みなさんが歩み寄ると、と…

大谷翔平選手の4シームを打席で見てみるの巻

しつこいようですが、科学が存在を読み替えることについてひとこと申し上げます。今日は運動という観点からこの存在の読み替えについて申し述べようと参上いたしました。 私はいろんなことに興味がもてなくなってきた(しょぼくれた)人間ですけれども、そん…

科学は存在を別ものにすり替える

*存在のすり替えにともなう関係のつなぎ替え第1回 科学は存在を、存在しているとおりに捉えるものではありません。読み替えて捉えるものです。科学的発想を習得するためには、存在のこの読み替えを理解する必要があるのではないでしょうか。 科学が存在を…

位置取りの変化だけが変化であるものへ

今日も何かのひとつ覚えように、科学による存在の読み替えについてひとこと申し上げようと参上いたしました。ただし今日は、変化という新たな観点からお話ししようと思います。 ハガキを郵便ポストに入れにいく途中だとします。歩道の先に見えているポストに…

科学は存在を読み替え、存在の神秘を見失う

科学は、というかデカルト以後の西洋では、存在を読み替えます。この読み替えにはもろちん利点もありますが、同時に問題点もあるかと思われます(それがささいなものなのか、それとも無視できないほどのものなのかは、今は考えないことにします)。たしかに…

存在の読み替えとフッサール、ハイデガー

科学は存在を読み替えます。ですが、調べてみますと、それは科学に限ったことではないようです。哲学者デカルトははやくも著書でそうした存在の読み替えをものの見事にやってみせています。科学はこうした読み替え作業を受け継いだものと言うべきかもしれま…

まとめ

*寺田寅彦、存在の読み替えについて第13回 以上、例をあげながら、存在が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものであることをまず確認し、そのあと、科学が存在をただ無応答で在るだけのものにすり替えているのを確かめ…

私の内部と外部

*寺田寅彦、存在の読み替えについて第12回 では、科学によって存在からとり除かれた、私が現に目の当たりにしている、川の流れる姿、舞台中央のソリストの姿、レモンの黄色、現に聞いているトランペットの音、現に嗅いでいる花の香り、現に味わっているレモ…

位置取りに問題を限定する

*寺田寅彦、存在の読み替えについて第11回 存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるものから、ただ無応答で在るだけのものへすり替えることで、向日葵も、机の一辺も、その表面も、蜜蝋も、位置を占めているという性質…

デカルトの蜜蝋

*寺田寅彦、存在の読み替えについて第10回 デカルトはこの「客観化」作業を使って、一個の蜜蝋を、ただ無応答で在るだけのものであるところの「客観存在」へと読み替えてみせる。 それはたったいま、蜜蜂の巣から取りだされたばかりである。それ自身の蜜の…