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科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学には全然理解できない快いとか苦しいとかいうことの意味を簡単に確認してみよう(2/5)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.9】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.55


◆快さ・苦しさとは「今どうしようとするか、ハッキリしている度合い」のことである

 最初にいきなり結論を口にすることにしましょうか。で、そのあと、その結論を念頭に、一からその結論に向かって、ひとつひとつ論理的な階段をあがっていくという手順をとってみましょうか。


 では、最初に結論を言いますよ。快さとは何か、また苦しさとは何か。


 まずみなさん、みなさんが快さを感じている具体的な一場面を想像してみてくれますか。どんな場面でも構いません。わかりやすい例がお勧めですけど。


 どうですか。そのとき、みなさんはどんなふうに感じていますか。みなさんなら、その感じをどう表現しますか。


 こう表現しませんか。


 今どうしようとするかかなりハッキリしている、って。


 いや、いま言ったことを理解できなくても、心配しないでくださいよ。このあと説明を足していったとき、事は明確になっていきます。


 つづいて今度は、みなさんが苦しさを感じている具体的な場面をひとつ想像してもらいましょうか。わかりやすい例を、どんな場面でも構いません、想像してみてくれますか。


 どうですか。そのときこんなふうに感じていると表現することができませんか。


 今どうしようとするかあまりハッキリしていない、って。


 要するに、まとめるとこういうことです。


 快さを感じているとは、「今どうしようとするか、かなりハッキリしている」ということであり、かたや苦しさを感じているとは、「今どうしようとするか、あまりハッキリしていない」ということである、って。


 どうでしょう。俺は雲をつかむような話しをしているでしょうか? けど仮にそう聞こえていたとしても、大船に乗った気持ちでいてください。いま、一から順にこの結論に向けて、理詰めで話をしていきます。ひとつひとつ、論理的な階段を踏んで確認していけば、最後にはおのずと、いま口にした結論の意味が明らかになっているはずですよ。






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*前回の短編(短編NO.54)はこちら。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

 

科学には全然理解できない快いとか苦しいとかいうことの意味を簡単に確認してみよう(1/5)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.9】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.55

目次
・最後に、快いとは何か、苦しいとは何か
・快さ・苦しさとは「今どうしようとするか、ハッキリしている度合い」のことである
・今という一瞬を、出来事の最中と見る
・今という一瞬を、目的に向かっている瞬間と見る
・その問いには、どう解いているかの他に、どれだけ解けているかという程度問題がある



◆最後に、快いとは何か、苦しいとは何か

 機械ではない身体を機械と見なす科学には、快いとか苦しいといった、医学の基礎となるべきはずのものの意味が理解できないということを、先ほど実際に確認しましたよね。


 以上数回にわたる、快さと苦しさを題目にした考察はひととおり終わりました。

 

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快さと苦しさについての、前回までの一連の考察

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 でもひょっとすると、こんなふうに考えているひともいるかもしれません。


「それこそ私たちはふだん四六時中、快さや苦しさを気にして生きている。快いとか苦しいといったことは誰にでも即座にわかる、私たちに馴染みのものであるということだ。青という言葉を用いるだけで、青色のなんたるかが即思い浮かぶように、また人間という名を出せば、どういった存在のことを指しているかすぐピンとくるように、快さや苦しさといった言葉を聞けば、私たちは一瞬のうちにそれがいったい何のことを意味しているか理解できる。


 そうである。快さとは何か、また苦しさとは何かを、わざわざ事細かに説明されなければ、それらが何であるかわからないなどということはない。


 しかしながら、である。しかしながら、それでも敢えて、快さや苦しさとは何であるかと問うとしたら、どうであろう」


 どうですか、みなさん。もしそんな声が聞こえてきたら、みなさんなら、その問いにどう答えますか。


 今回は、快さと苦しさにまつわるこの一連の考察の締めくくりとして、快さとは何か、苦しさとは何か、というその問いに答えてみたいと思います。


 さっそくはじめますね。






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*前回の短編(短編NO.54)はこちら。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

 

科学がやっているように身体を機械と見なすと、こんなふうに快さや苦しさの意味がまったくわからなくなって、もう頭が爆発しちゃいそうだ(4/4)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.8】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.54


◆快さと苦しさがやっぱりここでもうっちゃられる

 みなさんはふだん、やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことで、「苦しくないか(快い)、苦しいか」を争点にするということでした。でも、この説をとると、やれ健康だ、やれ病気だと言うことによって争点にするところは、「苦しくないか(快いか)、苦しいか」ではなくなります。


 好物への接近行動をとるべきときに、その行動が起こるよう、事前にそのためのウォーミングアップ(快情動)が身体にしっかりと起こるか。もしくは、敵からの逃避行動をとるべきときに、その行動が起こるよう、事前にそのためのウォーミングアップ(不快情動)が身体にしっかりと起こるか。


 そのように、快さと苦しさについては、しかるべき時に適切なウォーミングアップがそれぞれ身体にちゃんと起こるかどうかが争点になります。


 要するに、もうすこし踏み込んで言うと、医学は快さと苦しさについても、こんなふうに「正常か、異常か」を争点にするしかなくなるということです。


「快情動というウォーミングアップは、好物への接近行動まえに身体に起こるよう(たとえば遺伝子によって)定められている。で、いまこの状況は、好物への接近行動が起こるべき場面である。にもかかわらず、いまその接近行動のためのウォーミングアップは身体に起こらなかった(だから、起こるべき好物への接近行動は起こらなかった)。これは『異常(行動)』だ。治療が必要である」


 またはこう。


「不快情動というウォーミングアップは、敵からの逃避行動まえに身体に起こるよう定められている。で、いまこの状況は、敵からの逃避行動が起こるべき場面である。にもかかわらず、いまその逃避行動のためのウォーミングアップは身体起こらなかった(だから、起こるべき敵からの逃避行動は起こらなかった)。これは『異常(行動)』だ。正常にしてやらなければならない」

 

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この世に異常ということはあり得ないと下の記事で確認しました。ひとを正常と異常とに分けることは、一部のひとたちを、ほんとうは正常と認められるべきであるにもかかわらず、異常と決めつける差別であるということでしたね。

1.すこし込み入った確認法

2.上記よりもっと簡単な確認法

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 感情を勝手に行動のためのもの(ウォーミングアップ)と決めつけてしまった結果、快さや苦しさについて考えるとき、「正常か、異常か」を争点にするしかなくなり、快さと苦しさそのものに向き合って、「苦しくないか(快い)、苦しいか」自体を争点にすることが  難しいことでも何でもないにもかかわらず  できなくなることが最後に確認できましたね。






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先に挙げた参考図書2冊の中から適宜、文章を引用しながら、今回の論題を点検した過去記事はこちら。

くどいようですが、先に挙げた参考図書2冊とは以下のものです。


*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.52)はこちら。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

科学がやっているように身体を機械と見なすと、こんなふうに快さや苦しさの意味がまったくわからなくなって、もう頭が爆発しちゃいそうだ(3/4)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.8】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.54


◆性被害者を「なのになぜ逃げなかった!」と叱りつける極悪非道理論

 みなさん、もし可能であれば、申し訳ないですけど、暴力を振るわれそうになっているものと仮定してみてくれませんか。


 みなさんは恐怖を感じています。


 その恐怖はいまの科学の説によると、みなさんの脳が、みなさんの心のなかに作り出したサインであることになります。


 どんなサインか?


「身体機械」に起こっている不快情動がどんなふうであるかを(心に)知らせるサインですね。もっと砕いていうと、敵(この場合は暴漢)からの逃避行動まえに身体に起こっているウォーミングアップがいかようかを(心に)知らせるサイン(前記B)、ですね?


 でも、恐怖を覚えているとき、ほんとうに身体はそんな敵からの逃避行動まえのウォーミングアップをしていると言えそうですか? そのおかげで、敵からの逃避行動がそのあとスムースにとれる、そんなウォーミングアップを身体はしている、って?


 恐怖っていったい何でしょう? ひとに暴力を振るわれそうになって、恐怖を覚えるというのは、言ってみれば、すくみ上がるということですね? 身体が固まるということですね?


 恐怖を覚えると、逆にうまく動けなくなるのではありませんか。感じている恐怖が強ければ強いほど、身体はうまく動かないのではありませんか。


 そういう点で、恐怖は緊張と似ているのではないでしょうか。緊張すると、身体はうまく動かなくなりますね?


 にもかかわらず、恐怖を感じているということを、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップが身体に起こっているということだと解すると、つまり、そのあと逃避行動がスムースにとれるようになるそんなウォーミングアップが起こっているということだと考えると、話が大きく違ってきませんか。


 むしろ、話がまったく正反対になってきませんか。こんなふうに。


「恐怖を感じていればいるほど、恐怖が強ければ強いほど、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップがしっかりとれていることになる。だから、そのあと敵からの逃避行動もよりスムースにとれることになる!」


 そしてたとえば、こういうことになりません?


 みなさんがレイプされそうになって、恐怖を覚えたとしますよ。みなさんは固まるわけですね。逃げようにも、身体が動かなくなる。足がうまく動かない。声も出てこない。まるで意思というものが自分のうちからパッと一気に消えて無くなってしまったかのように。でも、いま見ている科学の説を信奉している人間は、たとえばこう責めてきます。


「あなたはそのとき恐怖を感じていた。それは、あなたの身体に敵からの逃避行動まえのウォーミングアップがしっかりと起こっていたことを意味する! あなたには逃げる準備がちゃんとできていたんだ! なのに、なぜあなたは逃げなかった!」


 とんでもない言い掛かりだと思いませんか? 恐怖を感じているときの自分のことをすこしでもふり返れば、こんな説をとれるはずがないことはすぐ合点がいくではありませんか?


 こんな見方で、みなさんがふだん感じている快さや苦しさをまともに説明することは不可能です。


 では、遅くなりましたが、最後に、快さと苦しさについてのこんな珍妙な説をとると、争点を「苦しくないか、苦しいか」から「正常か、異常か」にすり替えることになるという例のことを、いまから確認していきます。






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*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.53)はこちら。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

科学がやっているように身体を機械と見なすと、こんなふうに快さや苦しさの意味がまったくわからなくなって、もう頭が爆発しちゃいそうだ(2/4)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.8】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.54


 では、本題に入ります。いまから確認する、快さと苦しさについての前掲2の説では、科学は、感情(腹が立つとか哀しいとか楽しいとか可笑しいとか)を持ち出してきて、それを情動という名で呼び換え、行動前に「身体機械」に起こるウォーミングアップのことであると勝手に決めつけます。


 そして、そのウォーミングアップのあとに「身体機械」に起こるはずであると科学が信じる行動をふたつに分けます。好物への接近行動と、敵からの逃避行動とに。


 で、その行動の二分化に合わせて、情動(ウォーミングアップ)のほうも快情動不快情動とに分け、前者の快情動を、好物への接近行動まえに起こるウォーミングアップ、後者の不快情動を、敵からの逃避行動まえに起こるウォーミングアップということにそれぞれします。


 いま言ったことを簡単な式にまとめるとこうなります。

  • A.快情動:好物への接近行動まえに「身体機械」に起こるウォーミングアップ
  • B.不快情動:敵からの逃避行動まえに「身体機械」に起こるウォーミングアップ


 脳は、「身体機械」に快情動というウォーミングアップが起こっていれば、それについての情報をもとに、心のなかに快さという感覚を作りあげ、反対に不快情動というウォーミングアップが起こっていれば、それについての情報をもとに、心のなかに苦しさという感覚を作り出す、と考えるわけです。


 要するに、快さと苦しさを医学はこう解するということですよ。

  • A'.快さという感覚は、脳が心のなかに作り出した、「身体機械」に起こっている快情動というウォーミングアップがいかようかを(心に)知らせるサイン
  • B'.苦しさという感覚は、脳が心のなかに作り出した、「身体機械」に起こっている不快情動というウォーミングアップがいかようかを(心に)知らせるサイン


 さあ、どうですか、みなさん。みなさんは快さや苦しさをこんなふうに解して生きていくことはできますか。こうした解し方で、ふだんみなさんがその時々に感じる快さや苦しさを説明していくことはできそうですか。


 みなさんが快さや苦しさであると、これまで思って生きてきたものは、いまの説明でうまく表現されていると納得できましたか。


 むしろ反対に何か怖くなりませんでしたか。こんな解した方をしたのでは、誰でもわかる日常の当たり前の感情すら、何のことかさっぱりわからなくなってしまうのではないか、って。


 もちろん、いま見ている快さと苦しさについての説も誤りです。そもそも、身体を「身体機械」と見なす時点で誤りですし、感情(科学の言葉では情動)を、行動まえに身体に起こるウォーミングアップと解するのも何の根拠もない勝手な決めつけにすぎません。この説に何か適切なものがひとつでもあるのかすら怪しいと言わざるを得ないくらいですね。


 けど、一応、ひとつ具体例をあげて、この説がいかに的外れで、危険な思想であるか確認しておきますよ。






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*前回の短編(短編NO.53)はこちら。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

 

科学がやっているように身体を機械と見なすと、こんなふうに快さや苦しさの意味がまったくわからなくなって、もう頭が爆発しちゃいそうだ(1/4)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.8】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.54

目次
・快を「好物への接近行動前のウォーミングアップ」のサインとし、不快を「敵からの逃避行動前のウォーミングアップ」のサインとする説
・性被害者を「なのになぜ逃げなかった!」と叱りつける極悪非道理論
・快さと苦しさがやっぱりここでもうっちゃられる



◆快を「好物への接近行動前のウォーミングアップ」のサインとし、不快を「敵からの逃避行動前のウォーミングアップ」のサインとする説

 科学が、機械ではない身体を機械と見なすことにした結果、みなさんのように「苦しくないか、苦しいか」を争点にすべきところで、「正常か、異常か」を争点にしてしまうことになっている、その実際の様子を、前回にひきつづき確認します。


 科学には、快さと苦しさについて、つぎの2種類の説があるように思われるとのことでしたね。

  1. 快さとは心のなかに発生した、「身体機械」が正常であることを(心に)知らせるサイン/苦しさとは心のなかに発生した、「身体機械」が異常であることを(心に)知らせるサイン
  2. 快さとは心のなかに発生した、好物への接近行動まえに「身体機械」に起こっているウォーミングアップがいかようかを(心に)知らせるサイン/苦しさとは心のなかに発生した、敵からの逃避行動まえに「身体機械」に起こっているウォーミングアップがいかようかを(心に)知らせるサイン


 今回は前記2について考察します。これは、脳科学が好む説と言えるのかもしれません。

 

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つぎの2冊を参考に考察します。

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 でもそのまえにつぎのことを復習しておきますよ。科学の身体観(身体機械論)はつぎのような見方をするものであるということでした。

  • ①身体とは「身体機械」である。
  • ②「身体の感覚」は、心のなかにある像である。
  • ③その像は、心の外に実在している「身体機械」についての情報をもとに、脳が作り出したものである。

 

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身体がほんとうは機械なんかではないことを、あっと言う間に確認した記事。

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*前回の短編(短編NO.53)はこちら。


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身体を機械と考えると、やれ健康だ、やれ病気だと言っているときに、争点にするところが、みなさんのように「苦しくないか、苦しいか」ではなく、「正常か、異常か」になってしまう科学の実例2つ(5/5)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.7】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.53


 こうして、いま見ている説では、快さや苦しさという感覚は、うっちゃられ、その代わりに、「身体機械」が正常であるか、異常であるかを争点にしていくことになります。


 先に指摘しておきましたように、この世に異常ということは何についてもあり得ないということでしたけど。


 科学には、快さと苦しさについての説が大きく言うと、ふたつあるのではないかと指摘し、そのふたつのうちのひとつを今回は見てきました。その説をとると、争点が、「苦しくないか、苦しいか」から「正常か、異常か」にすり替えられることになることが、確認できましたね。


 次回は、残りのもうひとつの説をとり挙げます。






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*前回の短編(短編NO.52)はこちら。


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