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科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

統合失調症の「デブ、ブス、奴はダメだ、と言う声が聞こえてくる」を理解する(6/6)【統合失調症理解#18】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.40


◆肉まん放置事件returns

 さて、みなさん、どうでしたか?


 今回見たDさんの3事例は、統合失調症の症例(幻聴)とされ、「理解不可能」とされるものばかりでしたよね。だけど、その3事例でのDさんはほんとうに、そうした(精神)医学の見立てどおり、「理解不可能」でしたか? 「人間の知恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎」でしたか?


 いや、十分、「理解可能でしたよね。


 みなさんもふだんよくする「現実修正解釈」を、Dさんもしていたにすぎませんね?


 もちろん、いまDさんのことを完璧に理解できたと言うつもりは俺にはサラサラありませんよ。むしろ、Dさんのことを多々誤ったふうに決めつけてしまったのではないかと気が咎めて仕方がないくらいですよ。


 たとえば、肉まん放置事件のことを今一度、思い出してみてくださいよ。


 友人が道端に肉まんの食べかけを捨てた瞬間、「デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない」という声がDさんに聞こえてきた、ということでしたよね。それは、Dさんがその友人に注意できなかったことをきっかけに、他人からの評価を気にしはじめたということなのではないか、と先に推測しましたけど、真相はひょっとすると、まったく別だったかもしれませんよね? もしかすると、Dさんが、「デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない」と自責し出した現実)ということだったかもしれませんね?


 しかし、Dさんからすると、自分がそこで自責し出したりするはずはなかった。つまり、語弊を恐れながらも言い換えると、そのときDさんには、自分が自責しているはずはないという「自信」があった。


 で、その「自信」に合うよう、Dさんは現実をこう解した。


「デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない」と言う声が聞こえてくる、って。

  • ①友人に注意できなかった自分を、「デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない」と自責する(現実)。
  • ②自分が自責しているはずはないという自信がある(現実と背反している自信)。
  • ③その自信に合うよう、現実をこう解釈する。「『デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない』と言う声が聞こえてくる」(現実修正解釈


 こういった可能性だって、考えられないわけではありませんね?


 肉まん放置事件について最初にした推測は、事によると、誤解だったかもしれませんよね?


 Dさんのことを完璧に理解し得たとは、とても請け合えそうにありませんね?


 とはいえ、その3事例でのDさんがほんとうは「理解可能」であるということ自体は、今回、少なくとも明らかになったのではないでしょうか。


 申し分のない人間理解力をもったみなさんになら、そのDさんのことが完璧に理解できるということは、十分示され得たのではないでしょうか。


 今回は、「デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない」「おしゃれっぽい、かわいい、きれい……」といった声が聞こえてきたと訴えていたDさんに登場してもらい、統合失調症と診断され、「理解不可能」と決めつけられていたそのDさんが、(精神)医学の見立てに反し、ほんとうは「理解可能」であったことを実地に確認しました。





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2021年8月12日に文章を一部訂正しました。


次回は6月7日(月)21:00頃にお目にかかります。


*今回の最初の記事(1/6)はこちら。


*前回の短編(短編NO.39)はこちら。


*このシリーズ(全48短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

統合失調症の「デブ、ブス、奴はダメだ、と言う声が聞こえてくる」を理解する(5/6)【統合失調症理解#18】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.40


◆すべての事例で共通して起こっていたこと

 以上、Dさんの引用文のなかに書かれてあった、統合失調症の症例(幻聴)とされる3つの事例について考察してきました。その3事例のいずれでも、Dさんがしていたのはおなじことだったのではないか、とのことでしたね。


 Dさんはいずれの事例でも
他人からの評価を気にしていた現実)。まわりのひとたちに常々、「デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない」と思われていたのではないかとか、周囲のひとたちに「おしゃれっぽい、かわいい、きれい……」と思われているのではないかとか、先生に「Dは授業態度が良くないなあ」とかと思われているのではないか、といったふうに。でも、そのDさんには、自分が他人からの評価を気にしているはずはないという「自信」があった。で、いずれの事例でも、その自信に合うよう、現実を解釈したのではないか、ということでしたね。


 箇条書きにするとこういうことですね。

  • ①他人からの評価を気にしている(現実)。
  • ②自分が他人からの評価を気にしているはずはないという自信がある(現実と背反している自信)。
  • ③その自信に合うよう、現実をこう解釈する。「わたしのことを、とやかく言う声が聞こえてくる」(現実修正解釈


 3事例すべてでDさんがしていたのは、こうした現実修正解釈ではないか、ということでしたね。


 どうですか。みなさんもふだん、こんなふうに現実修正解釈をすること、しばしばありませんか。たとえば、こんなことありません?


 自分が間違っていた(現実)ことはいまや明らかである。なのに当時は、自分が間違っているはずはないといった自信があった(現実と背反している自信)。で、その自信に合うよう、現実をこう解していた。「ひとが嫉妬して私に難癖をつけているんだ」(現実修正解釈)。


 あるいは、自分には何の落ち度もなかった(現実)。なのに当時は、悪いのはきっと自分であるはずだという自信があった(現実と背反している自信)。で、その自信に合うよう、現実をこう解していた。「ひとに迷惑ばかりかけている」(現実修正解釈)。





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2021年8月12日に文章を一部修正しました。


*今回の最初の記事(1/6)はこちら。


*前回の短編(短編NO.39)はこちら。


*このシリーズ(全48短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

統合失調症の「デブ、ブス、奴はダメだ、と言う声が聞こえてくる」を理解する(4/6)【統合失調症理解#18】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.40


◆授業中、先生がわたしのことを話している

 いま、事例をふたつ見終わりました。ここで、さらに時間を遡りましょう。Dさんが最初に挙げていた事例を最後に考察してみますね。


「高校生のとき、授業中に先生がわたしのことを話しているような気がした。授業が終わった後に聞いてみると、『それは空耳だよ』という返事だった」と、Dさんは言っていましたね。


 授業中Dさんは先生に、たとえば、「Dは授業態度が良くないなあとかと思われているのではないかとふと気になったのかもしれませんね。だけど、Dさんからすると、自分がそこで、他人からの評価を気にしたりするはずはなかったのかもしれませんね。


 いや、いっそ、ここでも、Dさんのその見立てを、語弊を怖れながらも、こう言い改めてみることにしましょうか。そのときDさんには、自分が他人からの評価を気にしているはずはないという自信があったんだ、って。


 授業中、Dさんは先生に「Dは授業態度が良くないなあ」とかと思われているのではないかと気になった(現実)。ところが、そのDさんには、自分が他人からの評価を気にしているはずはないという「自信」があった。このように「現実自信とが背反するに至ったとき、ひとにとることのできる手は、つぎのふたつのうちのいずれかではないかと、依然、俺には思われてなりません。

  • A.その背反を解消するために、「自信」のほうを、「現実」に合うよう、訂正する。
  • B.その背反を解消するために、「現実のほうを、「自信」に合うよう、修正する


 で、その場面でもDさんは後者Bの「現実のほうを修正する」手をとった。自分が他人からの評価を気にしているはずはないとするその自信に合うよう、現実をこう解した。


 先生が授業中に「Dは授業態度が良くないなあ」と言っているのが聞こえてきた、って。


「先生、さっき授業中に、わたしの授業態度が良くないと言いました?」


「え、言っていないよ? それ、空耳じゃない???」


 箇条書きにしてまとめてみるとこうなります。

  • ①先生に「Dは授業態度が良くないなあ」とかと思われているのではないかと気になる(現実
  • ②自分が他人からの評価を気にしているはずはないという自信がある(現実と背反している自信
  • ③その自信に合うよう、現実をこう解釈する。「先生が授業中に『Dは授業態度が良くないなあ』とか言っているのが聞こえてきた」(現実修正解釈





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2021年8月12日、同年11月16日に文章を一部訂正しました。


*今回の最初の記事(1/6)はこちら。


*前回の短編(短編NO.39)はこちら。


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統合失調症の「デブ、ブス、奴はダメだ、と言う声が聞こえてくる」を理解する(3/6)【統合失調症理解#18】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.40


◆「おしゃれっぽい、かわいい、きれい」と聞こえてくる

 さあ、つぎは、Dさんがその路上肉まん放置事件のまえに語っていた事例を見てみましょう。Dさんはこう言っていましたよね。


「大学一年のときには、自分が人に良く言われているような幻聴が始まっていた。合唱部にいたのだが、部活から家に帰るときに『おしゃれっぽい、かわいい、きれい……』などと聞こえたような気がして、解放感でいっぱいでフワフワとしていた」って。


 Dさんは帰宅中他人からの評価が、先ほど見たのとは逆の意味で、気になったのかもしれませんね。いま自分はおしゃれっぽいかわいいきれい……」と周囲のひとたちに思われているのではないか、って。


 だけど、Dさんからしてみると、自分がそこで、他人からの評価を気にしたりするはずはなかった。


 いや、いっそ、ここでも、Dさんのその見立てを、語弊があるかもしれませんけど、思い切ってこう言い換えてみることにしましょうか。そのときDさんには、自分が他人からの評価を気にしているはずはないという自信があったんだ、って。


 Dさんは帰宅中、他人からの評価が気になった(現実)。周囲のひとたちに「おしゃれっぽい、かわいい、きれい……」と思われているのではないか、って。ところが、そのDさんには、自分が他人からの評価を気にしているはずはないという「自信」があった。このように「現実自信とが背反するに至ったとき、ひとにとることができる手は、つぎのふたつのうちのいずれかの手であるように、やはり俺には思われます。

  • A.その背反を解消するために、「自信」のほうを、「現実」に合うよう、訂正する。
  • B.その背反を解消するために、「現実のほうを、「自信」に合うよう、修正する


 で、この場面でもDさんは、後者Bの「現実のほうを修正する」手をとった。つまり、自分が他人からの評価を気にしているはずはないとするその自信に合うよう、現実をこう解した。


「おしゃれっぽい、かわいい、きれい……」と言う声が聞こえてきた、って。


 いまの推測を箇条書きにしてまとめると、こうなります。

  • ①帰宅中、他人からの評価が気になる。周囲のひとたちに「おしゃれっぽい、かわいい、きれい……」と思われているのではないか、って(現実)。
  • ②自分が他人からの評価を気にしているはずはないという自信がある(現実と背反している自信)
  • ③その自信に合うよう、現実をこう解釈する。「『おしゃれっぽい、かわいい、きれい……』と言う声が聞こえてきた」(現実修正解釈)





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2021年8月12日、同年11月16日に文章を一部訂正しました。


*今回の最初の記事(1/6)はこちら。


*前回の短編(短編NO.39)はこちら。


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統合失調症の「デブ、ブス、奴はダメだ、と言う声が聞こえてくる」を理解する(2/6)【統合失調症理解#18】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.40


◆肉まん放置事件

 故Dさんがちょうどいま、「デブ、ブス……」という幻聴が聞こえてきたと言っていた肉まん放置事件から、考察をはじめることにしましょうか。


 友人のひとりが道端に肉まんの食べかけを捨てようとしたとのことでしたよね。Dさんは「そのとき『そんなことすると片付ける人に悪いから、地面に置かずにごみ箱に捨てよう』と言いたかったのだが、そのときなぜか言えなかった。一緒に旅行するくらいの仲ではあったが遠慮して言えなかった」とのことでしたね。「そしてわたしの友人が肉まんを下に置いた瞬間」、Dさんは不意に、他人からの評価を気にしはじめたのかもしれませんね。


 友人にロクに注意もできないこんな頼りのないわたしのことを常々、周りのひとたちは、「デブブス副指揮者はダメだ頼りがいがないと思っていたのではないか、って。


 だけど、Dさんからすると、自分がそこで、他人からの評価を気にし出したりするはずはなかったのではないでしょうか。


 いや、いっそ、Dさんのその見立てを、少々語弊があるかもしれませんけど、こう言い換えてみることにしましょうか。そのときDさんには、自分が他人からの評価を気にしているはずはないという自信があったんだ、って。


 いまこう推測しましたよ。


 友人に注意できなかったことをきっかけに、Dさんは他人からの評価を気にし出した(現実)。友人にロクに注意もできないこんな頼りのないわたしのことを、周りのひとたちは常々、「デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない」と思っていたのではないか、って。ところが、そのDさんには、自分が他人からの評価を気にしているはずはないという「自信」があった。


 このように「現実自信とが背反するに至ったとき、ひとにとることのできる手は、つぎのふたつのうちのいずれかであるように俺には思われます。

  • A.その背反を解消するために、「自信」のほうを、「現実」に合うよう、訂正する。
  • B.その背反を解消するために、「現実のほうを、「自信」に合うよう、修正する


 では、もしその場面でDさんが、前者Aの「自信のほうを訂正する」手をとっていたらどうなっていたか、ひとつ想像してみましょうか。もしその手をとっていたら、Dさんは目を丸めながら、認識をこう改めることになっていたかもしれませんね。


 思ってもみなかったことだけど、わたしには他人からの評価を気にするところがあるんだな、って。


 でもDさんがその場面で実際にとったのは後者Bの「現実のほうを修正する」手だった。自分が他人からの評価を気にしているはずはないとするその自信に合うよう、Dさんは現実をこう解した。


「デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない」と言う声が聞こえてくる、って。


 いまの推測を箇条書きにしてみますね。

  • ①友人にロクに注意もできないこんな頼りのないわたしのことを、周りのひとたちは常々、「デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない」と思っていたのではないか、と気になっている(現実)。
  • ②自分が他人からの評価を気にしているはずはないという自信がある(現実と背反している自信
  • ③その自信に合うよう、現実をこう解釈する。「『デブ、ブス、副指揮者はダメだ、頼りがいがない』と言う声が聞こえてくる」(現実修正解釈





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2021年8月12日、同年11月16日に文章を一部訂正しました。


*前回の短編(短編NO.39)はこちら。


このシリーズ(全48短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

統合失調症の「デブ、ブス、奴はダメだ、と言う声が聞こえてくる」を理解する(1/6)【統合失調症理解#18】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.40

目次
・3つの事例をとり挙げる
・肉まん放置事件
・「おしゃれっぽい、かわいい、きれい」と聞こえてくる
・授業中、先生がわたしのことを話している
・すべての事例で共通して起こっていたこと
・肉まん放置事件returns


◆3つの事例をとり挙げる

 この世に異常なひとなどただのひとりも存在し得ないということを、かつて論理的に証明しましたよね。

 

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その証明をしたときの記事をいちおう挙げておきますね。

(注)もっと簡単に証明する回はこちら。

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 そしてそれは、この世に、「理解不可能なひとなど、ただのひとりも存在し得ないということを意味するとのことでしたね。

 

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そのことを確認したときの記事もいちおう挙げておきますね。

(注)もっと簡単に確認する回はこちら。

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 だけど、医学は一部のひとたちを異常と判定し、「理解不可能」と決めつけて、差別してきました。


 たとえば、あるひとたちのことを統合失調症と診断し、こんなふうに、やれ「永久に解くことのできぬ謎」だ、「了解不能」だと言ってきましたよね?

かつてクルト・コレは、精神分裂病〔引用者注:当時、統合失調症はそう呼ばれていました〕「デルフォイの神託」にたとえた。私にとっても、分裂病は人間の知恵をもってしては永久に説くことのできぬ謎であるような気がする。(略)私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか(木村敏『異常の構造』講談社現代新書、1973年、p.182、ただしゴシック化は引用者による)。

異常の構造 (講談社現代新書)

異常の構造 (講談社現代新書)

  • 作者:木村 敏
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1973/09/20
  • メディア: 新書
 

 

 専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ「了解不能」で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能であることがこの病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司統合失調症、その新たなる真実』PHP新書、2010年、pp.29-30、ただしゴシック化は引用者による)。

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

統合失調症 その新たなる真実 (PHP新書)

 


 最近は、(精神)医学に統合失調症と診断され、このように「理解不可能」と決めつけられてきたひとたちに実際に登場してもらい、そのひとたちがほんとうは理解可能であることを実地に確認しています


 今回もおなじことをしますよ。


 故Dさんは自身のことをこう語っています。以下、その話のなかに出てくる、統合失調症の症例とされる3つの事例(ゴシック化した部分)をもちいて、今回は考察を進めていきます。

 幻聴がしょっちゅう聞こえるようになって一七年が経った。今年(二〇〇四年)の夏で一八年に入る。高校生のとき授業中に先生がわたしのことを話しているような気がした授業が終わった後に聞いてみると、「それは空耳だよという返事だった


 わたしは幼いときからずっと情緒不安定だった。両親が厳しすぎるくらい厳しく、小学生のとき門限が午後四時だった。放課後学校でドッジボールをしている級友をうらやましく思いながら帰宅しなければならなかった。


 帰ると、スパルタ式に母がわたしに勉強を教えた。母が一生懸命に教えても、わたしは飲み込みが悪く、そして不注意で、「㎏」と「㎞」を間違えたりした。母も苦労したと思う。ちゃぶ台で勉強しているわたしの背中を母が蹴って、ちゃぶ台とわたしが一緒に庭に飛ばされたこともあったが、現在も母とわたしはうまくいっており、いまではそれもなつかしい楽しい思い出である。


 母が勉強を見てくれて、女子ばかりの私立の中学を受験し入学した時点で安心してしまい、まったく勉強しなくなった。両親は、さらにレベルの高い大学に行くことを希望していたが、高校、大学とエスカレーター式で行くことになってしまった。


 中学から大学まで宿題、予習、復習を怠ることが多く、提出物も期限を大幅に過ぎてから出すという周囲から見ると不まじめで怠惰な学生だった。大学は一〇分以上遅刻すると欠席になるという規則だったが遅刻・欠席がほとんどで、授業に出席するふりをしてデパートで遊んだり、映画を見にいったりしていた。単位もほとんど取得することができなかった。


大学一年のときには自分が人に良く言われているような幻聴が始まっていた合唱部にいたのだが部活から家に帰るときにおしゃれっぽいかわいいきれい……」などと聞こえたような気がして解放感でいっぱいでフワフワとしていた


 大学で遅刻・欠席をたくさんしてしまい、ほとんどすべての科目の単位を落として両親をひどく悲しませてしまった。


 大学二年生のころになると、幻聴がわたしのことを非難しはじめた。


春休みに女の子三人で横浜に旅行したことがある中華街で歩いていたときのことである一人が肉まんを食べていて、「もういらないと言ってそれを道端に置こうとしたそのときそんなことすると片付ける人に悪いから地面に置かずにごみ箱に捨てようと言いたかったのだがそのときなぜか言えなかった一緒に旅行するくらいの仲ではあったが遠慮して言えなかったのだそしてわたしの友人が肉まんを下に置いた瞬間にデブブス……」という声が聞こえはじめたわたしは合唱部で副指揮者をしていたので、「デブブス副指揮者はダメだ頼りがいがないとも聞こえた


 その旅行から帰ってしばらくして、ふだんの様子と違うことに気づいた両親に勧められて、初めはいやだったが割とすんなりと精神科を受診した(浦河べてるの家べてるの家の「当事者研究」』医学書院、2005年、pp.64-66)。

べてるの家の「当事者研究」 (シリーズ ケアをひらく)

べてるの家の「当事者研究」 (シリーズ ケアをひらく)






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2021年8月12日に文章を一部修正しました。


*前回の短編(短編NO.39)はこちら。


*このシリーズ(全48短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

漫画に出てくる幻聴「神様の声に、触れ、食べるな、と命令される」を理解する(6/6)【統合失調症理解#17】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」から短編NO.39


 以上、今回は、もつおさんの、はじめて“神様の声が聞こえた”場面を見させてもらいました。(精神)医学は、これを幻聴という異常体験と診断し、「理解不可能」と決めつけて、脳のなかの一部がおかしくなって起こる現象だと説明してきましたね。けど、もつおさんのその体験は、まったく理解不可能なんかではありませんでしたね?


 もちろん、そのもつおさんの体験をいま完璧に理解できた、と言うつもりはサラサラありませんよ。むしろ、もつおさんのことを多々誤ったふうに決めつけてしまったのではないかと、悶々としているというのが正直なところですよ。


 でも、そうは言ってもさすがに、もつおさんのその体験が「理解可能」であるということ自体は、いまの考察からでも十分、明らかになりましたね?


 申し分のない人間理解力をもっているみなさんになら、もつおさんのその体験が、完璧に理解できるということは、いま、十分に示せましたね?





5/6に戻る←) (6/6) (→次回短編はこちら

 

 




2021年8月12日に文章を一部修正しました。


次回は5月17日(月)21:00頃にお目にかかります。


*今回の最初の記事(1/6)はこちら。


*あっ、そう言えば、タレント間寛平さんの「神のお告げを聞いた」という事例について、DI Kolumboがかつて考察していたのを、いま思い出しました。その記事はこちら。


*もつおさんがお描きになったその漫画はこちら。


*そのなかの一部が現在、無料で読めます(全11話)。


*前回の記事(短編NO.38)はこちら。


*このシリーズ(全48回を予定)の記事一覧はこちら。